去年の今日、10月8日はどんなことを書いていたかな。

一昨年の今日、10月8日はどんなことを書いたんだっけ。

自分の過去記事を読みに行ってみました。


去年は新しい手帳の話しからの『おおむね良い年だった』という内容。

一昨年は東日本大震災の記録として、
アメブロに引っ越してくる前の場所で書いていたものを
移行させたものの後半記事でした。


どちらにもコメントがたくさん寄せられていて、
今でも仲良くしている人に混じって・・・・鎌さんのコメントも。

まさか、翌年である今年にはもう会うことができない状態に
なっているとは・・・・お互いに思うこともなく・・・・。


『つらい、もう逝ってしまいたい』

それが、最後に聞いた彼の言葉。


もう随分前のような気がしているけれど、
鎌さんの容態が気になって行ってみたのは、わずか4か月前。

まだ、4ヶ月しか経ってないんだ。。。。


あれからしばらくの間、時々番号非通知の電話が鳴っていたけれど、
最近では、全く鳴りません。

最後の『生きている』というアクションから、
私が部屋に行き空っぽになっているのを見るまで、約3週間。

命日すら分からない。

(連絡が無いから確信はない。
 けれど、その『連絡がない』ということが証になっている。
 彼が生きているのなら、必ず連絡があるはずだから)


鎌さんの部屋を訪ねてみた直後。
『生きた証』ということを書いた。
これは、新撰組黙秘録勿忘草の沖田さんのセリフの中にもある言葉。

同じく、新撰組血魂録勿忘草の原田さんで
『死なない理由』
『生きていく理由』
というものを考えさせられた。

積極的に死を望んでいるわけではないが、
『いつ死んでも構わない』
という気持ちは確かに存在している。




ハッキリと死に直面したわけではないけれど、
このままだと『死』が訪れるといった体験は幾度かしている。


昔、そう私がまだ高校生だったころ。

元亭主の運転する車に乗って、自宅へ送ってもらう途中のこと。
猛吹雪に見舞われ、視界はほぼゼロ。
道道(書くと変だけど、県道って言うでしょ。それよ、それww)だけど
国道が別ルートで走っているから、ここは裏道にあたる。
交通量は圧倒的に少ない。
前後に車の影はなく、対向車もいない。

さすがにスピードは出していないけれど、
それでも前が何にも見えない。

怖い・・・

この時、初めて『死』というものが頭に浮かんだ。

『まだ死にたくない』

何をしたいっていう明確な何かがあったわけでもないし、
結局はこの人と結婚することになったけれど、
結婚して家庭を持ち子供をって考えたこともなかった。

それでも、絶対に死にたくないという気持ちがあったのは間違いない。



飛行機が揺れて、今回は駄目かもって思ったことも、
やはり、元亭主の運転で事故りそうになって死を覚悟したことも・・・。

そのいずれも、心に浮かんだのは

『まだ死にたくない』



ところが、東日本大震災のあの日。

後で2階を建て増ししているうちのお店。
中にいるのは危険ということで、みんなで外に避難した。
片側2車線に面していて、歩道もかなり広い。
そこで、大きく揺れる街並み、道路、
ぎしぎしと不気味な音を立てるお店の建物。

それらを見ながら、
『自分の人生はここで終わるのか』
と、思った。

不思議と『まだ死にたくない』という気持ちはなく・・・・

その気持ちは、今も私の中にある。

かえって明確になってきている。

決して、自ら死を望んでいるわけじゃない。

けれど、今この時が最期になるのだとしても、
それを受け入れる・・・
受け入れられる気持ちがあるということ。


これは、子供たちが大きくなったことと大きな関係がある、と思ってる。

これから先、あの子たちがどうなっていくのか。

もちろん、見届けたいっていう気持ちはある。


その反面、もう私が側で守ってあげなくても、
ちゃんと生きていけるっていう安心感もある。




『死なない理由』はセブンスのヒロインたちのように、
明確な『死ぬ理由』を持っていないから。

『生きていく理由』は・・・・・


やっぱり、愛だろうか。



親からの愛をもらい、親として子供に愛を注ぎ、

『好きだ』と『愛している』と言ってくれる人にも出会ったけれど・・・

たくさんの好きだと思える人に出会ったけれど・・・・


離婚を経験したからなのか、『永遠の愛』は存在しないと思い込んでいた。


でも、それは違うのかもしれない、と思い始めている。


親から与えられている愛は途切れることはない。
そして、私が子供に抱いている愛も。

たとえ、どんなことがあっても、
物理的に距離があろうとも、
親からの愛も、子供へ向ける愛も『永遠』だと分かったから。

そう、明白なことだったのに、
何も隠されていることもなく、
こんなに堂々と目の前に示されていたのに、
これが胸の中にストンと落ちたのって本当につい最近のこと。



どんなことがあっても、
どんな状況であっても、
『永遠の愛』を分かち合える人と出会いたい。

子としてではなく、
親としてではなく、

一人の女として。

心から愛したいし、尊敬していきたい。

俺のものだと言葉で縛って、包みこんで欲しい。




って、このタイミングで『深海』(セブンス・シオン)と
『Farewell Song』(シュウのキャラソン)を
流してくる私のパソコンって・・・・

空気読み過ぎだよ。(しかも2回連続だなんて)

また泣いちゃったじゃないか。



ああ、そうだ。
サブの方でちょろっと書いたんだけど、
この曲の中のセリフ部分。
歌詞カードには『・・・愛してた』って書いてある。
歌詞カードを目でなぞりながら聞いた2回目のときも
違和感を感じなかったから『愛してた』なんだと思う。
けど、今は何回聞いても『愛してたのに』って聞こえてしまう。
これは、私の空耳?
それとも、現実?
シュウのキャラソン持ってる方、検証を願います!





シュウと言えば、ディアラバ・アニメ。
ニコ生試聴組の私は日曜日にシュウのターンを見ました。

自分の気持ちが、反応がどうなるのか・・・
少しの不安を持ちながら見たのだけど・・・。

私、大丈夫でした。
見事にユイと同化してます。

女性は視覚からではなく、聴覚からなんてよく言いますけれど、
私は視覚もあったほうがいいななって
両方があった方が興奮するなって常々思ってるから
ってのもあるのかな。



少々、着地点がずれたけど(笑)

こういう深い話はきっと何度も繰り返し書くから。

自分の中の思いってのを『文字』に起こすっていう作業が
私には必要不可欠なものみたいだから。








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