昨日の記事の続き的な今日です。
昨日は他人の命に対する話。
今日は、自分の命の話。
アメーバニュースにも学生の自殺者が増加っていう記事がありますね。
娘の大学時代の友達、去年の12月に自ら命を断ってしまいました。
彼は大学時代にうつになり、卒論も単位もままならなくなり・・・・
留年したのか・・・退学したのか・・・そこは分からない。聞いてない。
同じ心理学を専攻していた仲間。
心理学勉強したって、友達一人救えなかった。
『助けて』の声をちゃんと受け止めることができなかった。
そう言って、号泣していた。
私たちが他人の『命』を『人生』を奪ってはいけないように、
勝手に断ち切ってはいけないのと同じように、
勝手に『この人のこの先の人生はいらない』って決めちゃいけないように、
『自分の命』
も、自分の『勝手な考え』で断ちきっちゃいけない。
『いらない』って決めちゃいけない。
いつも、『無駄にポジティブ』と自他共に認める私だけど、
そんな私でさえ、
『ここで終わりにしたら、どんなに楽だろう』
って、思う瞬間を経験してきている。
それこそ、何度も何度も。
悪魔の囁きのように、フッと心の隙間に潜り込んでくる。
そんな『魔』の気持ちに流されずに、ここまで来たのは、
子供を産む前は『親の存在』、
子供を産んでからは『子供の存在』もプラスされたから。
一人っ子の私。
高校卒業してすぐ実家を離れているので、親元にいたのはわずかに18年2ヶ月。
ここで、私が自殺してしまうと、
自分よりも長く生きると信じていた娘の葬式を出さなくちゃいけない。
それから、まだまだ続くであろう親の人生には、常に『悲しみ』が付き纏うだろう。
私の親は、自分を攻め続けるに違いない。
あの時こうしてあげなかったからじゃないだろうか。
サインを見逃してしまったのだろうか。
どうして気付かなかったのか。
・・・・と。
子供が生まれたら、さらにプラスされた。
母親が自殺したとなったら、
自分は母親に・・・いや、すでに離婚して父親もいないのだから
両親に必要ないと言われたも同然。
子供たちの存在意義、存在理由、そういうものが消滅してしまう。
命の生まれる仕組みって、みんな分かってるよね?
数えきれないほどの偶然が重なって重なって・・・・・・命が生まれる。
偶然が重なれば、それは・・・必然。
こうやって、生を受けている私たちの存在自体が、必然なんだ。
何の意味もなく存在している人なんて、一人もいない。
この時点まで生きてきた人生、100%何にも関わっていないって人。
いないでしょ。
自分は一人だ、って思いこんでる人。
誰かに、何かに、関わっているから、生きてるんだよ。
自分の命って、自分の人生って、自分だけのものって気がしちゃうだろうけど、
それは違うと思うんだ。
今はまだ出会っていない誰かに、これから先の人生で出会う。
それは、ものすごくものすごく大切な人かもしれない。
そんな未来を『自分には必要のないもの』って断ち切っていいのかな。
私は、45年生きてきて、ようやくソウルメイトと出会ったし、
大切な人にも次々と出会った。
そして、心震えるほど好きだと思える人に出会えた。
過去の、あの時点で命を断っていたら、会えなかった人たち。
だけど、私は死刑廃止論者ではないんだ。
身勝手な理由で他人の人生を平気で断ちきってしまう人間こそ、
この先の人生は必要ないと思っている。
ただ、死刑執行人の心の負担を少しでも軽くするようになればいいと思ってる。
いくら複数人でスイッチを押すにしても、心の負担は半端ないはず。
まして、日本の場合は絞首刑でそこにぶら下がっているのだから。。。
アメリカの州によって違うけれど、薬物による死刑がある。
それこそ、眠るように死んでいく。
より残虐な死刑法、拷問を与えた上での死刑を求める人もいるが、
これから先の全ての可能性を含んだ『人生』を終えさせる人間に
痛みや辛さを与えて何が残る?
そんなことよりも、残虐な行為を行わなければならない執行人の
心の負担の方がよっぽど重要じゃないかな。
苦痛にゆがむ顔、激痛から出る叫び声。
そんなもの、見たくないし、聞きたくない。
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自分は死刑廃止支持なんだって人も
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