「幸せ」って何?
その昔、私が高校生だった時。
私が通っていたのはキリスト系のミッションスクール。
幼稚園が併設されていた。
(ちなみにこの幼稚園を卒園しました)
幼稚園の園長先生はシスター。
高校の学園長は神父様。
一般採用の教員の他に、シスターたちも教員として勤めている。
授業には聖書を勉強する時間がある。(週2時間)
この聖書の時間には、新約聖書の一節を深く掘り下げ考える。
当然、試験もあるが、感想文を提出するタイプの試験になる。
3年生の時だったか、「幸せについて」という何とも大雑把な括りの設問が出た。
本当は、新約聖書の教えに基づいて書くべきなのだろうが、
少々、ひねていた自分は、
幸せになりたいから楽になりたいからと宗教にすがるのには疑問がある。
信仰していないから、心が穏やかでなく幸せではないのだ、
と言われるのは心外だ。
その人が幸福かどうかは、他人が決めることではなく、
他人が不幸せだと思える状態であっても、
自分自身が「幸せ」だと感じていれば、その人は幸せなのだ。
という、まるでケンカを売っているような趣旨のことを書いて満点をもらった。
でも、この考えは常に自分の根底にある。
自分の土台になっている。
自分が誰かを幸せにする。
これってどういうことだろう。
金銭的に不自由をさせないこと?
ケンカのない毎日?
楽しく苦労せず暮らせる毎日?
「一生、幸せにする」
元亭主に言われた言葉。
確かに貧乏だと感じたことはなかった。
でも、私の心は満たされない。
家に、彼に、束縛されていたから。
働きたくても遠まわしに反対され、
世間と繋がっていたくて、PTAやボランティアの活動すると嫌な顔をされる。
嫌な顔をされるから、活動していることを話さなくなる。
秘密が増えていく。
一人一人、幸せだと感じるポイントが違う。
血の繋がった親子でも違うのだから、血の繋がっていない夫婦なら尚更。
自分が感じる幸せが、他の人も同じと考えるのはいかがなものか。
ただ、一つ言えること。
「笑顔」
笑顔があって、笑い声が響いているところに、
「幸せ」が一欠けらもないなんてことは有り得ない。
幸せは他人に与えられるものではない。
自分で得るもの。
自分も、そして他の人にも笑顔が生まれるように行動する。
会話をする。
そこにはきっと、
「あぁ、今の瞬間って幸せだな」って思う、幸せの欠片があるはず。
そして、今。
幸せなことと、不幸せなことが・・・・・・。
以前、ブログに書いた我が家のブラックホールに
吸い込まれてしまった「6万円」。
出てきました~!!
そして、その代わりに息子の蛇腹式クリアケースが・・・
ブラックホールの餌食に・・・。
あんなに大きなものが・・・どこへ・・・・・・
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