みなさんこんにちは チェンです
本日の目当ては「かぶとをつくろう」です。
新聞紙でみんなでかぶとをつくります。
今日は五月人形とかぶとについて、ご紹介します。
平安時代の華やかな行事として、朝廷で節会を催し、中務(なかつかさ)宮内に二省から菖蒲を献上し、また皇族や臣下に薬玉(やすだま)を賜り、菖蒲を献する時には輿(こし)に盛り、それを菖蒲の輿と呼んだと言われております。昔から端午の節句の行事には、武張(ぶば)った行事が多く見られました。
この節句を騎射節(うゆみのせつ)とも言い、天皇が射場で近衛の騎射をご覧になったり、公家の邸では平安時代の中頃に下級官人を集めて、射技を催すことや子供たちが大勢集まって甲冑のような装いをして、弓を射て遊んだり、男の子たちの小弓の勝負は近世まで続いたようです。
平安時代の末期頃には、印地(いんぢ)打ちと呼び、石合戦のことで大人が参加することもあり、初めは5月の節句に限られたことではなかったようですが、江戸時代には5月5日の端午の節句の行事になっていたようです。
平安時代、鎌倉時代、室町時代と国内では全国各地で武将同士の争いが絶えなかった時代、菖蒲を主体とした兜が1300年頃に桧の木を薄く削って兜のかたちをしたものが、武家屋敷でも男子出産を祝って飾られたようです。
その後、江戸幕府15代将軍徳川慶喜までの約280年の間に戦争もなく、大陸文化の移入など平和な時代に入って、日本のすばらしい文化や芸術古人からの古事や遺跡を守りつつ、急激に発展しました。
武者人形の登場で人形が男の子の節句の飾りとしては、江戸時代の初期からおこなわれ将軍家の端午の行事にも寛永19年5月5日に江戸時代での端午の節句には諸大名より献上する菖蒲兜がたくさん飾られたと残されており、将軍家の端午飾りは2年後の1644年の端午の節句に江戸城に登場した林羅山(1583~1657年)がその見事さを語っています。
その後、町衆にも移行して、当初は外飾りが圧倒的に多く、1800年頃までは大型のものが多かったようですが、江戸時代の後期になると、鎧飾りが飾られるようになり、これは戦国時代の武将の着用した模写が多いようですが、兜飾りと併行して安政2年頃から甲冑飾りができており、現在も端午の節句の主流として大鎧飾りが続いています。
以上チェンでした~~~