おはようございます。

SKY-CUBE5296のキューブです。

 

社会福祉士への道

~Road to Social Worker

にお立ち寄りくださり、

ありがとうございます。

 

社会福祉士の勉強をしていて、テキストにでてくる人名とその人の業績を覚えるのは、難しいものですね。

 

でも、せっかく、社会福祉の世界の門戸をたたこうとしていますので、「人と環境」に興味を持つことが大切だと思うのです。

 

特に、興味があるのは、その人が、なぜ、福祉(当時は福祉という概念すらない?)に携わるようになったのかということです。その理由と動機ですね。

 

それでは、石井亮一さんの場合をみてみましょう。

 

石井亮一


【プロフィールは?】

石井亮一さんは、明治時代から昭和時代初期にかけての心理学者・教育学者・社会事業家。現在の社会福祉法人滝乃川学園(東京)と公益財団法人日本知的障害者福祉協会の創設者。

「日本の知的障害児者教育・福祉の父」。知的障害児者教育・福祉の先駆者として、現代に至るまで極めて高い評価を受けている。石井さんがいなければ、日本の知的障害に関する研究は、大幅に遅れていたと言われている。知的障害を抱える多く人々にとって、それは不治の障害ではなく、発達の遅滞であるということを日本で初めて主張。彼らへの教育や治療の必要性を訴えた。奥さんは、近代女子教育の先駆者の一人である石井筆子さん。


【生い立ちはエリート?】

1867年(慶応3年)、現在の佐賀県佐賀市で生まれる。佐賀藩士の六男。生家は、佐賀藩主・鍋島家の藩祖以来の外戚家門。亮一さんの祖父は、第9代藩主・鍋島斉直のもとで家老格として仕えた重臣。父も文武に優れた藩吏。一家は役宅として佐賀城内に屋敷を与えられ、そこに居住。幼少時から、秀才と評判の少年。体が丈夫ではなかったため、父の意向で藩主の侍医をつとめた大須賀家の養子に。その後、佐賀県立佐賀中学校に進む。在学中、旧藩主・鍋島家の奨学生に選抜される。科学者を目指して、現在の東京大学工学部を受験。しかし、身体検査で不合格。科学者への夢を諦められず、コロンビア大学への留学に志望を切り替える。英語習得のため、立教大学に入学。

 

【女子教育者とクリスチャン】

立教大学在学中に、創立者・チャニング・ウィリアムズ聖公会主教と深い師弟関係を築いて、その教えに感銘を受ける。そして受洗。キリスト教徒となる。卒業後、留学のための身体検査で、またしても不合格。結局、留学を諦めることに。母校の付属校であった立教女学校に勤務することになり、教諭に就任。その後、まもなく24歳で教頭に就任して、学校改革に努力。

 

教頭在職中、濃尾大地震が発生。被災地で親を失った多数の孤児が発生。その中でも少女たちが人身売買の被害を受けていることに大きな衝撃を受ける。「女子に性の尊さを知らせずして何が女子教育だ」と義憤を感じる。急遽、現地に出張。現地で岡山孤児院の石井十次さんと合流。ともに孤児の救済にあたる。

被災地で保護した20名余の女子の孤児(孤女)を引き取る。私財を拠出し、聖公会からの義援金を加え、荻野吟子女医の自宅を
借り受けて、聖三一孤女学院を開設。孤女を収容し、彼女たちへの教育を開始。学院は幼稚園、小学部、高等女学校部を設置。
孤女の教育に精励(1891年)。

 

【知的障害児教育の道は棘(いばら)の道】

保護した孤女の中に、知的な発達の遅れが認められる女児が2名いた。石井さんは彼女たちに深い関心を抱くが、当時の日本において、これらの問題に対する処置や研究はまったくおこなわれておらず、「白痴」と呼ばれて人権侵害が甚だしい状態であった。彼は、この問題に取り組むことを決意。2度にわたり渡米。米国各地の大学・図書館で研究に勤しむ。知的障害児教育の学祖エドゥワール・セガンの未亡人から生理学的教育法を学ぶ。ヘレン・ケラーとも会見。知的障害や特殊な障害についての見識を深める。帰国後、留学成果を実践するため、聖三一孤女学院を在地に因んで滝乃川学園と改称・改組。知的障害者教育の専門機関とする。

 

【滝乃川学園の経営は厳しい状況の連続】

滝乃川学園は、園児・園生への教育機能の他、成人した園生の就業場所の確保、学園の財政基盤の確立のため、農場や印刷所などの事業部門が設置された。研究所や保母養成所なども相次いで設置され、総合福祉施設としての展開をみた。一方、常に財政問題を抱え、運営は厳しかった。

 

亮一さんは、36歳の時、旧知の間柄で、学園の支援者でありかつ園児の保護者でもあった渡辺筆子未亡人と結婚。筆子夫人は、男爵渡辺清の長女で、東京女学校を卒業した才色兼備の女性であった。欧州への留学経験があり、華族女学校(後の女子学習院)の教諭をつとめ、静修女学校(後の津田塾大学の前身となった一つ)の校長も務める近代女子教育の先駆者であった。筆子夫人の内助を得て、亮一さんの事業も益々発展していく。

 

滝乃川学園の運営は、いつまでたっても安定しなかった。1921年には、園児の失火により、園児数名が死亡する事故が起きる。
亮一夫妻は責任を感じて学園の閉鎖を決意するが、貞明皇后をはじめ、心ある人々から激励と義援金を贈られ、事業の継続をあらためて決断する。支援者からは、事業の安定のため、学園の事業を財団法人化し、安定化を図ろうとの動きが活発化し、財界からは渋沢栄一さんが支援に乗り出した。彼は後に第3代理事長として、亮一さんの事業を援けることになる。

 

財団法人認可後も、依然として財政は厳しく、昭和恐慌の影響から莫大な負債を抱えることとなる。亮一さんは私財をほとんど学園に寄付。石井家はもはや破産状態であった。そのうえ、亮一さんを支えてきた渋沢も没し、学園の運営はさらに困難となる。

そのような中でも、亮一さんの業績や、学園の事業への評価は益々高まり認知される。晩年は東京府児童研究所長等の公職にも推挙され、1934年には、現在の日本知的障害者福祉協会を創設。推されて初代会長に就任した。

 

1937年(昭和12年)、体調を崩しながらも、激務をこなしていた。秩父宮雍仁親王夫妻が学園に来訪。夫妻は亮一さんの体調を気にかけ労いの言葉をかけた。しかし、6月14日死去。遺体は亮一さんの遺言により、献体された。滝乃川学園の事業は筆子夫人が継承。第2代学園長に就任。

 

【人物伝・エピソード】

①亮一さんは、立教大学に入学し、大学付属の寄宿舎に入った。「新入生に良さそうな青年が来た」と先輩の学生たちが、入舎した亮一さんを早速取り囲んで、聖書の説教をはじめた。先輩の一人が「神よこの者の罪を許し給え」と言った途端、亮一さんは「なんだ、失敬ではないか。私は罪など犯していない」と怒り出し、そのまま荷物をまとめて寄宿舎を出ていってしまい、大学の近隣に下宿を借りて移り住んでしまったという。

 

②ことに有名な言葉が、「人は、誰かを支えている時には、自分のことばかり考えるけれど、実は相手からどれだけ恵みをもらっているかは、気づかないものだよ。」というものである。

 

③日本の知的障害児者教育は亮一さんが日本で初めて取り組んだものであったため、当時、国内にはその分野に関する研究書は皆無であった。亮一さんは、その分野の洋書を多数収集していたため、洋書輸入販売業の丸善に頻繁に通っていた。丸善にとっては常連顧客であった。かつて、丸善には書店に併設された風月堂の喫茶室があったというが、これは亮一さんが当時の丸善社長に提案したものだといわれている。教育者のみならず事業家としての一面も感じさせるエピソード。

 

④亮一さんは、あるとき財閥家から寄付をもらえるというので出かけて行った。学園は運営資金のやりくりに苦労し、少しでも多くの資金が必要であった。しかし、亮一さんはなんと手ぶらで帰宅する始末。理由を尋ねると、「不浄のお金はもらえないから断ってきた」という。それをみた妻の筆子さんは「よくお断りになられましたね」ととても嬉しそうであったという。

 

⑤あるとき、篤志家から学園内に亮一夫妻の居宅を寄付で建てたいとの申し出があったが、亮一さんは「私たちの生活などどうにでもなる」といって固辞し、亮一さん夫妻は学園内の寮の片隅に畳を敷いて、居間としたという。

 

石井亮一さんが、福祉、とくに知的障害児の教育に取り組んだのは、①幼少期から自分の体が弱かったので、弱い立場の人の気持ちがわかったこと、②佐賀藩に育まれた武士としての正義感が強かったこと、③世間体を全く気にしなかったこと、④クリスチャンになったこと、⑤渡米し、市民平等の見識をもったこと、⑥知的障害児の子どものある筆子夫人と結婚したことなどがあると私は、思います。(もちろん私見ですよ。)

 

いやー。この人は、すごい人ですね。石井亮一さんのこと記憶に残りました。

 

キューブの好きな曲

 

第1位 アイノカタチ MISIA feat.HIDE(GReeeeN)

女優の綾瀬はるかさんが主演を務める
TBS系連続ドラマ『義母と娘のブルース』。
再放送のテレビを録画して、
一人で見てたら、不覚にも泣いてもた。
ドラマで、この曲が流れるタイミングが絶妙。
最終回で、みゆきが義母の亜希子に
「そういうの、そういうのね、
 世間じゃ愛っていうんだよ」というセリフ。
絶対といっていいほど涙腺が緩みますね。
この曲は、社会福祉士のテキストを読んで
いる時に、気がつくと頭の中を流れています。
特に、子どもと家庭の福祉の時は
テレビ映像も頭に再生されて、
なかなかテキストに身が入らないほど。

年末年始に再放送があるそうな。

見たいなぁーーー。.

 

それでは、また…。

 

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このブログにはじめてお立ち寄りの方に

おっさんと家族のプロフィール等を

長々と書いておきます。

時々、プロフィールも更新していますが、

既読の方は、スルーを!

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キューブのプロフィール

(2019.11.27 加筆・訂正)

 

愛媛の田舎育ち。自閉症者の父。

イケメンにあらず。身長160㎝。

何を着ても服がしっくりこない、

ちんちくりん。

取得資格は、行政書士、宅建士、

コンピュータシステム監査技術者、

日商簿記2級と普通自動車運転免許。

社会保険労務士と司法書士は

GIVE UP。

平成18年5月1日会社法施行同日に

自力で株式会社を設立登記。

 

【幼い頃】

母の裸の記憶がない。

母は、子どもにも自分の裸を見せない人。

物心ついた時は、風呂はいつも父と。

母のおっぱいを吸った記憶が

残っていない。(あたりまえ?)

癇癪の強かった私が、母の乳房に

噛みついた(?)らしい。

以後、母は恐怖心から、授乳をいやがり

近所の母親から、もらい乳することに。

両親は、うどんや大番焼きなどを売る

小さな食堂を自営。

慣れぬ土地で二人とも食うのに精一杯。

客商売で年中無休。

二人の子どもにかまう時間なし。

子どもは、店が閉まるまで、

近所で別々に過ごす。

子どものご飯は、店の店屋物。

近所では、夕食時になっても

帰らないので、晩ごはんをよばれる。

まるで、きたない野良猫のよう。

家の隣が、当時、流行りのパーマ屋さん。

そこの待合室で、

婦人雑誌を見て過ごす。

そこに行くようになったのは

店に注文された出前を

届けるのため。

出前は、家の前にあるパーマ屋さんの

従業員用の宿舎に持っていく。

そこでは、中学卒の若いお姉さん達が

住込みでパーマ技術の見習いをしていた。

ある日、その女性従業員の中で、

一番若い(当時20歳前)のよっちゃんが

青鼻の汚い子どもを見かねたのか

お風呂に一緒に入ろうと誘ってくれた。

好きなタイプの女の人だったので

恥ずかしかったが、うなずいた。

従業員用の風呂場へ。

よっちゃんが着物を脱ぐ。素っ裸に。

私の服を脱がせた。

初めて、女性の裸をまじかに見た。

真っ白な豊満な乳房。

つんと上を向いた二つの乳首。

そして、自分には、あるものが、

よっちゃんにはない。

当時は、五右衛門風呂。

背をもたれかかると熱い。

よっちゃんが私を胸に抱く。

顔に、とがった乳首があたる。

よっちゃんが、私の大事なところを

石鹸で、やさしく洗ってくれた。

私はされるがままに。

しばらくして、よっちゃんの先輩が

入ってきて、それを見るなり

「これが、女を泣かせるのよね」と言って

大事なものを、いきなり、ひっぱった。

痛い。

よっちゃんが、それをとめてくれた。

嬉しかった。

2階にあがる。

暑い夏。

5、6人の女性が寝ており

みんな、おっぱい丸出し。

しばらく、ほてりで寝付けない。

よっちゃんが私の顔を自分の胸に

おしつけるようにした。

後は覚えていない。

翌朝、目覚めた時は、誰もいない。

布団は押し入れに積んであった。

その後、よっちゃんは、お嫁に・・・。

もう少し、早く生まれていれば

よっちゃんと過ごせたのにと泣いた。

 

【小学校~高校の頃】

早く大人にならないかなと思って

一日を過ごしていた。

一日の長いこと。

楽しい記憶がほとんどない。

 

【大学時代の頃】

一橋大商学部の二次試験で英語の

ヒアリングができずに落選。

滑り止めの慶応大経済学部に現役入学。

田舎者には馴染めない大都会東京。

超満員電車での通学がいやで

ほとんど大学に行かない。

昼は、ビルの床清掃や

競輪競馬場の警備員のアルバイト。

夜は、愛媛出身者の学生寮で徹マン。

徳川家康など歴史小説の読書三昧。

 

アルバイトで貯めたお金で、

北は酷寒の北海道宗谷岬から、

南は真夏の沖縄西表島まで、

ユースホステル利用の一人旅。

沖縄の西表島の縦断途中、

前日までの川の増水で、道が途絶え、

帰り道が分からなくなって疲労困憊。

そのうち、陽が沈む。

テントやシュラフもなく、半袖半ズボンで

ハブの危険を感じながら過ごす夜。

血を吸うヒルが顔に落ちてくるのを

払いのけながら、寒さに震えていた。

体の震えが止まらない。

死ぬかもしれない。

無駄な動きをせず、

夜明けになるのを待つことに。

すでに、真っ暗。

いくら目をこなしても、何も見えない。

時計がない。何時かわからない。

獣に食われても顔が残るよう

ナップザックで顔を覆う。

自分の息で生暖かい。

涙も出てきた。

思わず「おかあちゃん」と

大声で叫んだ。

いつの間にか、眠りに落ちた。

 

翌朝、猪の罠をボートで見に来た

猟師に助けられる。

白骨化した遺体が、ついこの間、

見つかったばかりだと言う猟師。

昨日、私が歩き回って壊した

猪の罠を修復。

猟師の家に帰るボートの中で、

大きなおにぎりを一つ分けてくれた。

「喉をつめんように、

ゆっくり、食えよ。」

熱い涙が、塩辛かった。

川の増水が気になった猟師が

「たまたま、罠を見に来た」と言う。

この奇跡。

「生かされた」ことを実感。

 

資金不足のため、東京へ帰る途中、

長崎のオランダ坂ユースに宿泊。

ユースの女将さんに気にいられ、

宿泊者のお世話をするヘルパーに。

宿泊代と食事代無料。アルバイト代なし。

12月のクリスマスは、

10代の女性客が小さなユースに殺到。

特に、女性用風呂のお湯の補給が

間に合わない。

急遽、数名の男性客に

入浴時間帯を相談し、協力を得る。

男性用風呂も女性に開放。

畳の大広間は、女性の雑魚寝。

朝の布団片づけは重労働。

60畳の部屋を掃除すると髪の毛の山。

長崎にいながら、

観光する時間もない長崎。

浦島太郎のごとく過ぎていく半年。

3月になり、大学に戻ることに。

寒い空の東京へ。

大学2年生への進級が、

単位が1単位が足りず、留年確定。

お陰で、女優の壇ふみさんと、同学年。

 

【会社員時代】

5年間の大学生活を終え、

四国の某製紙会社に就職。

面接時に、美しい女性社員が

愛媛のポンジュースを出してくれた。

それが、会社を決めた理由。

あろうことか、面接前に一気飲み。

大型コンピュータを使った

システムの運用部門に配属。

夜も眠らないコンピュータの床で

寝るもことも。夏は、涼しい。

システムプロジェクトリーダーで

13年間異動なし。

そして、コンピュータのこと以外

何も知らないシステムバカに。

神奈川県にある関係会社に出向。

役職は課長。

未経験の総務経理職に13年間従事。

神奈川で恵まれた子ども。

20回超、連れていったTDL。

何回行ったか覚えていない

キティランド。

遊園地と名のつくところは、

ほとんど制覇。

自閉症の子を

外へ連れまわす父親に。

49歳、取締役総務部長で

望まない退職。

妻子を養うため地元の愛媛県へ。

病院の事務長に初めての転職。

片道1時間の車通勤。

同時に入社した事務長候補が

相次ぐ退職。

病院経営の理不尽さに嫌気。

半年たらずで自己都合退職。

地元の紙関係の中小企業に

2回目の転職。

総務部長として、

好きなように社内改革。

好きなようにやっていたら、

いつの間にか

10年の歳月が流れていた。

責任の重い総務部長職を降り、

62歳から厚生年金の

比例部分を受給。

現在、総務部古参として、

ワークライフバランス中。

来年65歳。

定年退職の予定か?

 

このブログに登場する人々

●キューブ
このブログの作成者
年齢は64歳、既婚、

最近アルツの傾向あり。

性格は短気で、飽きやすい。

器が小さい。
趣味はパソコンの分解・組立。

藤沢周平、葉室麟など

時代小説の読書。

武士の情けが大好き。

たまに映画鑑賞。

ひとり旅は今では

遠い夢になりつつある。
応援している女優は

小芝風花さん。

色々な役に挑戦するところが

かわいい。

 

●大日如来(キューブの奥さん)
年齢は不詳。女性。既婚。
性格は一見気が弱そう、

怒ると怖い。

思考のバランス感覚に

優れている、

理路整然、辛抱強い。
趣味は仏像鑑賞らしい?

 

●フープ(風の精霊)

キューブと大日如来の子。
年齢は20代だと思う。

性別不明。未婚。自閉症。
性格は優しい。

時々多重人格。

パニックになると手に負えない。

父または母とのドライブで、

音楽を聞くことが好き。

趣味はパソコン。

インターネットサーフィンや

YouTube。

芸能人の誕生日は、

ほぼ暗記。

テレビ・映画の

主題曲クイズがお気に入り。

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by キューブ