こんにちは。

今日は文字だけのつらつら無意味な羅列シリーズ。
あまり深く考えず、あわよくば思考整理のために綴ろう
という文章です。

正直あまり楽しいものではないかも。
こういう考えの人がいるんだなぁくらいの気持ちで目を通していただけると幸いです。



さて、タイトル通り、スピリチュアル界での頻出用語『感謝』ですが、私はあまり好きな言葉ではありません。むしろ『謙虚』と共に嫌いといっても過言ではないです。

その理由として、たぶん実生活において「強要」という形(私にとって)で出会うことが多かったからかもしれません。

感謝しなさい。謙虚でありなさい。
お前には感謝がない。お前は謙虚じゃない。

幼少期から大人にそう言われるたび、子供ながらに「本来その言葉は、他者からそんなふうに用いられるものではないのでは」と疑問を抱いていました。

なにより「マナー(決まり事)だから口にする」という、本来の気持ちを無視したやりとりがとても不遜に思えたのです。

もちろん当時はそんな気持ちを言語化出来ず、ただモヤモヤしたまま黙り込む私は、周囲の大人に「可愛げのない子」という印象を与えました。

さらに、謙虚や感謝を私に語る大人は、私から見て100%その言葉から縁遠い人間だったことが、その言葉に拒絶反応を覚えるのに拍車をかけました。




スピリチュアルにおいて、いえそもそも世間一般において『感謝』は特に重要視されます。斎藤一人さん、小林正観さん、名だたるスピリチュアル界の巨匠ともいえるべき方たちも、繰り返しその重要性を説いています。
(もちろん押しつけるような形ではないですが)
もちろんそれは間違ってはいませんし、特に不快とも感じません。

しかし、先日初めてその例外を述べる本に出会いました。それが、スターシードkuさんの著書でした。

スターシードは感謝が苦手なひとがいる。
それは分離(二元性)特有の観方ともいえる。
決して冷たい訳ではない。
(※言葉そのままではなく、要約しています)

私自身は自分が冷たいんじゃないかなど、特に引け目に感じたことはありませんが、スピリチュアルにおいて感謝をこんなふうに解釈して、新たな視点から語っているのが新鮮でしたし、kuさんの本で多くの人が救われたんじゃないかなと思います。



いまの私は、もちろん社会生活をしている以上「ありがとうございます」という言葉は多用します。
気持ちがない訳でも、仕方なく言ってる訳でもありませんが、どこか「人間界の決まり事」として用いている感覚もあります。

それでいいんだと思っています。
むしろ「処世術」「技術のひとつ」として割りきることで、「気持ちがないのにそんな言葉を使うなんて」という生真面目な思考に苦しむこともなく生活出来るようにはなりました。

感謝を重要視する他者にも、そこに賛同出来ない自分にも違和感を覚えなくていい、といまではそれなりに納得しています。



結果的になにが言いたいのかわからない文章になってしまいましたね。笑

まぁ多くのエライ方たちが正解とされる考えに、必ずしも賛同出来なくてもいいんじゃないでしょうかと。
むしろその引っ掛かりにこそ、それぞれの個性だったり、深く考察するきっかけがあるのかもしれません。

では、またある程度、自分軸な気まぐれ投稿を続けていこうと思います。それでは!