たとえばそれはスノードームであって、雪に見立てた小さな粒が、その壁面に沿って流れることはあれど、垂直に貫いて外に出ることはない。

いずれ老いる細胞の集合体である以上、我々人間は死の軛から逃れることはできない。社会生活、生命維持活動に、死やら財産やら数多の制約がある限り、私たちの可能性には限界がある、と思うようにしている。


システムの面以外でも、たとえば内容の面でも、私たちの行動の可能性は大体絞られている。

将来の不安を抱えて弱音を吐きながら、それが自然なシナリオであるかのように就職先を決める人間たち。それが私の周囲の、限られた僅かな恵まれた環境からのサンプルであることは事実だけれども、不特定多数の人間が同じ方向に動いて流れるプールができるように、後続の生命たちは同じ道を辿り続けるのだと、私は考える。

ゲーテも、クレオパトラも、カエサルも、不老不死ではいられないし、現代日本で無難に生き残るには先達の足跡を丁寧に踏襲すれば良い。


こう考えれば、自分の人生で落胆するようなことがやってきても、そういうものだと、受け流すことができるような気がしている。そもそも、人間は何者かになる必要があるのか?何者かになっても、上には限りないし、いつまでもその栄光を維持することはできない。艱難辛苦を耐え抜いて掴んだ栄光は、身分は、艱難辛苦に見合っているといえるのか?スノードームの不自由に甘んじる粒の立場に、開き直って居座れば、私の椅子はあるのかも知れない。


人生に目的はない。なるべきモノはない。するべきこともない。ただの細胞、水の塊、所詮人間なんて、そんなものでしょう。

水に期待しても、応えてくれるかは分からない。

まず何を期待する?なぜ期待する?

明日が良い日であればいいと思うのは、なぜ?


健康に気を遣い、いつも静かに笑っていられれば、100年の化学反応を眺めていても苦にはならないかもしれない。


長々と、屁理屈にもならない、意味の持たない理屈、無理屈を話しました。

人生にもっと彩りが欲しい。今日は寝不足なのだと思います。