14時に、今日が何の日かを思い出して、居ても立っても居られず、急いで支度をして家を飛び出した。

ものぐさで、いつも何をするにも億劫な私をここまで駆り立てるものが、今日の三鷹にはあった。


私にとって、三鷹という地名は神聖さのようなものを帯びている。「そこにいけば自分の心が震えるものがある」というような、確信じみた感覚がある。中学生の頃から、三鷹を幾度か訪れた今に至るまで。

人生で初めて訪れた時は、確か高校三年生の冬だった。大学受験の験担ぎのつもりだった。しかし学校の帰りで、駅に着いた頃にはとうに陽は沈み、肝心の目的地も、その門扉を堅く閉ざしていた。その場所が場所だけに、妙に辺りは静まり返り、道を歩く人もなく、景色もほとんど変わらぬ一本道をずっと行ったものだから、今でも時折夢に見るほど、不気味な思い出になった。

後日、朝のうちに再訪して、断念した目的を、ほぼ、果たした。その時の感激も相当なものであったが、今日ほどではなかった。


それから数年経った今日、今度は冬ではなく、一年に一度しかないこの日に三鷹を訪れることで、やっと中学生の頃からの本懐を遂げることができたのである。資料集やらネットの記事やらで何度も見てきた、あの桜桃が墓石に詰められた異様な光景を、漸く間近で見ることができた。

今日は、私の敬愛する太宰治を偲ぶ日、桜桃忌である。


太宰治の墓は三鷹の禅林寺にある。

この情報を知った中学生のある日から、私にとって三鷹はいつか必ず訪れなければならない、聖地のようなものになった。「桜桃忌の日に禅林寺を訪れる」ことが、人生の達成すべき実績のひとつになった。

今日、その実績がようやく達成された。墓前には大量の桜桃やら、太宰治関連の書籍やら、短歌やら、顔も名前も知らない同志たちの想いが所狭しと供えられていた。今まで伝承の域を出なかった桜桃忌の様子は、思っていたよりもずっと盛んで、この名の由来である『桜桃』で太宰自身が珊瑚に譬えていた桜桃が墓前に山を形成していた。その粒がそれぞれ陽の光をキラキラと反射して、墓地の真ん中でありながら少しの陰気さもなかった。人だかりが出来ていて、入れ替わり立ち替わり人が来てはファン同士の交流が繰り広げられていた。


「お墓の文字にさくらんぼを上手く填められたら、願いが叶うんですよ。ここだけの話ですがね」と、墓のすぐ右に立っていた男性が、私か、私の右に居た女学生に向けて語ってくれた。

女学生は文ストの寝そべりぬいぐるみの小さいのを鞄に付けていて、普段の講義室では感じない一種の親近感を覚えた。

「80年前の小説家の墓にさくらんぼを填めることができれば願いが叶う」

流石にそれはないだろうと思ったが、そこに居合わせた人のほとんどがやるアクティビティのようだったから、私も「宰」のウカンムリの左端にさくらんぼを押し込んでみた。するとこの粒は夏の日差しに長く晒されていたと見えて、驚くほど柔らかく、すっぽりと填まった。墓前に起こる歓声。良いんだか悪いんだか分からない。

今後の文筆活動について祈りながら填めるつもりだったが、いざ観衆を前にしては妙に緊張して、上手く填まることばかりを祈っていた。本末転倒である。


太宰治の墓の斜向かいには、石見人として墓に入っている、森鷗外こと森林太郎氏の墓がある。今日はその前には特に人だかりができていなかったが、鷗外忌にはどうなるか、7月9日に再訪して確認したい。


太宰治文学サロンも、太宰治展示室も今日は大盛況で、太宰治祭り、というような熱気があった。

社会人になっても、こうして好きなものに触れていられるか、果たして分からないけれども、居ても立っても居られなくなるほどの好きなものがあること、その気持ちだけは、何があっても無くさないでいようと思った。


仕事よりも「好き」が大事。