私は常に「心の平穏」を願って生きている。

しかしちょうどアキレスが亀に追いつけないように、「心の平穏」を「願って」いるが為に、私の掌中に平穏が収まることはない。


私は社会で生きていけるのか。私の選択は正しいのか。何を基準に正しいとするのか。私がやりたいことは見つかるのか。いつか幕が下りるとき、私は人生に満足できているだろうか。不安が不安を呼ぶ。


不明瞭な将来を、ネガティブな言葉で要約してしまう。きっとこれから現在の私の想像もつかないような選択や岐路が沢山ありはするのだろうが、それでも私は、社会で摩耗して、歯車となって、そのまま死ぬ位しか将来のイメージができない。「不明瞭」とか、「明るくはない」とか、そういうイメージでまとめてしまう。

これからの将来を「明るくはない」として要約するとき、私の生涯は「競争に次ぐ競争で精神と神経を擦り減らし、明るくはない社会人生活を送り死ぬ。」ということになる。人生とは?


将来に希望を抱けない若者の一人としての私。誰かがこの事象の原因であれば責めることも出来ようが、この私をここまで苦悩させる諸悪の根源が簡単に見つかってたまるか、という気持ちもある。

私の苦悩が、誰か一人の、何か一言の、卑小な存在に片付いて欲しくはない。


そもそも「将来に希望を抱かない若者」の一人として十把一絡げに片付けられるのも、自分で言っておきながら、気に食わない。私の苦悩が、そんじょそこらのモブ風情と同じだと?

苦悩に呻吟して救済を求めておきながら、その苦悩が強大であって欲しいと望む。温室に咲く可憐な花より、不毛な砂漠に咲く蒲公英の方が、ずっと優れていると信じたい。

海を泳ぐ淡水魚。宇宙で燃えるマッチ棒。令和に生きる私。

苛烈な環境で生き抜いて、誰が褒めてくれる訳でも、平穏がやってくる訳でもないというのに。


追記:今までにないイメージを見た。

巌に様々な色の、粘性の高い液体が掛けられていく。私はそれを手で取り払って岩肌に触れようとする。やがて深緑の壁が現れる。しかしそれも数十年前に掛けられた粘液だったのである。

無味無臭の世界に色を塗って誤魔化しても何にもならないが、その色を全て取っ払ったとき、残っているものはあるのか。