私という存在が不確かになりつつあるこの夜に。
私が一体、どうしてここまで中途半端な人間になったのか。自分は夢もなく、意志もなく、自分を溝川の葉に例えてみたりして、そこに確かに残る、サウダージ。
自分の持っていないものと、人の持っているものを比較して、胸の奥が小さく冷える夜。
こんな俗な、くだらないことを考えていることに辟易する私。
人間の個性は、何を持っているかではなく、持ち物の組み合わせだと信じたい。
私の持つ要素の組み合わせは、私だけのものであって欲しいし、そもそもどれが正解の組み合わせであるかということも無いものだと、信じたい。

一体、人間の成功というものはなんでしょうか。私には、皆目、見当もつきません。成功が分からないので、自分が成功する人生というものも、よく分かりません。成功すれば、その人は幸福なのでしょうか。それも私には分からない。
しかし幸福というものを、私は既に持っているような気がしています。たとえば、世界で一番遠いものが、自分の背中であるという、なぞなぞをどこかで出題されたことがあります。タクシーの中のテレビだったかもしれない。そういう、とんちめいたものが「幸福」なのかもしれないと、最近になって考えるようになりました。
人気絶頂の芸能人が首を吊る。時代の寵児だった作家がアルコール依存症で失意のままに死ぬ。富豪は資産目当ての刺客に殺され、偉大なるリンカーンですら暗殺される。
人間の欲望に際限はないというけれど、それでは人間はどうすれば満足な人生を送れるというのでしょう。
幸福とは自分の中に生じるものであって、外部に対して求める類のものではないのかも知れません。
外部からの影響を受けざるを得ない我々人間は、自分の今ある状況に対して「幸福」「幸福ではない」と判断しているに過ぎず、その判断ひとつで幸福を得るか否かが決まるといえるのではないでしょうか。
遠く、まだ見ぬ高みに向かうより、その場で逆立ちした方が、「幸福」というものを手にするには近道であるということもあるかもわからない。
もし幸福が、そういう類のものだとしたら、さて、私はこれから数十年、どう生きればよいのでしょう。そもそも、自分が「幸福である」と考えられるようにするには何が必要なのでしょうか。いつかこれについて考えてみたいと思います。