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いまを生きるDIARY

コロナ禍にうつ病と診断されてから約2年
2024年春に社会復帰・寛解を目指す毎日の記録

 

敏感さは恥そのもの。“頑張る“ことが最大の美徳で誇り。

 

今日は簡単な生い立ちについて紹介させてください。

 

私は3人きょうだいの一番上の長女として生まれました。

2歳を迎えるまで毎晩(!)、母曰く、人攫いにでもあったかのような泣き方で夜泣きをしていたそう。

 

まもなく弟が生まれ落ち着いたのか、幼稚園にはすんなり行きはじめたものの、

とにかく「いや」と言えない子だったのだとか。

(どう考えても合わなそうなグループにいて、ある日には

あれよあれよという間に、美容院ごっこと称して髪の毛を切られ、ほぼ丸刈りになったことも・・・。)

 

小学校では、運動は苦手でしたが、勉強が得意だったこともありほぼ順調・・・かと思えたのですが、

週に2度、5年間毎週、こっそり半泣きで過ごす毎日でした。

というのも、小学校2年生から、パン給食の際「ポリ袋での個包装」が導入されたのですが、

そのポリ袋を膨らませて割るという、悪ふざけをする子がどのクラスにもいたんですね。

誰か鳴らそうとしている子はいないか、ビクビクしたり

実際にどこかのクラスで鳴ると身体がビクッとなるのを必死で隠しながら食べていました。

 

今から思えば、先生なり誰かに相談すればよかったのにと思いますが、

誰も怖がっていないのに、自分はおかしいんだ、と本気で思っていました

(運動会のピストルを怖がる私を、母に「また耳塞いで〜」とよく指摘されていたのもあったと思います。)

 

中学校では、吹奏楽部に入部し、良い音を聴くこと、楽器を演奏することの楽しさにのめり込みます。

また、勉強がとても得意だったことと、いろいろと気づきやすい性格もあってか、

部長に推薦されたり、度々全校生徒を前にスピーチを披露したり。

一歩間違えば鼻についてしまいそうですが、そこは細心の注意を払い、

思春期特有の女子の複雑な関係を乗りこなす(?)ことに精一杯の毎日でした。

そんな過ごし方だったので、同じレベル感で自分のことを分かってくれると信じれる友人はできませんでした。

 

特別な努力をしていないのに「すごいね」「賢いね」「しっかりしているね」と言われる学校生活。

家に帰ると、ちょうど生まれてまもない妹の子育てに邁進中の母。仕事に忙殺される父。

目立った反抗期こそありませんでしたが、ますます「相談する」「こうしたい」という思いを伝えるという選択肢を取らなくなります。

当然、本当の自分とのギャップは大きく、特定の先生に時間をもらってこっそり甘え、心の安定を測る・・・というアンバランスな生徒でした。

 

そうして中3に入ると体調を崩し(起立性低血圧の診断を受けます。診断名がついてほっとしたのを覚えています)、

最後の半年はほぼ毎日保健室に通うものの、高校受験は難なく突破し、いわゆる進学校に入学しました。

 

高校でも吹奏楽部に入部。皆熱心に勉強も部活も課外活動も取り組む人ばかりで、

“自分よりも頑張ってきた“と思える人にたくさん出会います。

予習・復習と部活動の両立は本当に大変でしたが、“頑張っている“自分と仲間が誇らしい毎日でした。

 

しかし、高3最後の夏の吹奏楽コンクールの部内オーディションが迫る季節。

同級生や後輩たちの複雑な思いを自分のことのように抱え、またもや体調を崩します。

居場所のない感覚。それでも最後は復帰し、コンクールの舞台には立たなかったものの

後輩の指導にあたるなど、自分のできることを見つけて最後の部活を終えました。

 

引退後は真っ直ぐに受験勉強にきりかえいわゆる「文武両道」「模範的な」生徒として、

受験も高校の進学指導方針通り国立大学にストレートで合格。

受験期の経験談の執筆を頼まれたり、後輩達への学習指導アルバイトを以来される等、

先生方からの信頼も厚かったように思います。

 

“頑張る“ことが最大の美徳。誇り。同じような仲間への尊敬の気持ち。

さらに、周囲の期待していることが分かる上に、十分応えられる。

でも、今から思えば、全部「答え」が用意されていることだったんですね。

答えのない、一回きりの人生。「自分はどうしたいのか」と本気で考えたことがない。

敏感な気質を恥ずかしく思いながらも、打ちのめされたり、人間そのものの深いやりとりのない小中高時代でした。

 

そんな私が、大学に進学し、少し変わりはじめます。

明日は大学入学、就職あたりの生い立ちを紹介できればと思います。

今日もお疲れ様です。