今日は沖縄の慰霊の日である。
戦争は永遠に風化させてはならない。
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金子兜太の「わが戦後俳句史」(岩波新書1985)を読み始め感想を書き溜めつつあったが、口蹄疫が発生してそれどころではなくそのままになったいた。
期限が来たので一旦図書館へ返したが続きは又借りてきて読むことにしよう。
以下、序の口の感想だ。

トラック島から捕虜期間を経て引き上げてきて、1960年(昭和35年)ころまでの
金子兜太の個人俳句史である。
 
彼は大正8年生まれで、わたしの父(大正7年)と同年代である。してみれば、
テレビに出てきて話すかくしゃくとした内容がなんと元気なことか感心する。
氏は、現代俳句協会派で、ホトトギス派のように季語、定型、花鳥諷詠、客観写生に拘らないが月並みは厳しく廃するところが気持ちよい。
 
この本の序で、「中村草田男をめざして、加藤楸邨に師事することから戦後が始まった」とあり、なぜ、そうなったかを書いている。
 
昭和20年8月15日、トラック島で終戦の詔勅を聞いた日、三句を作っている。
 
椰子の丘朝焼けしるき日々なりき 
スコールの雲かの星を隠せしは
湖に青雲生き死に言わず生きんとのみ
 
戦後「船酔い」という文章を書いて、自分がどのように俳句とかかわって行ったかを書いたことがあるそうだ。
戦争は「船酔い」だった。
しかし、戦後は、死者に報いるために自分が何をしなければならないかを問うた。
   それで「兜太」という俳号ではなかろうが・・・・(笑)
その心境の俳句を次の句で示している。

北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど
 
はっきり言って、子の句をまだ私は充分解釈、感得できない。
何となく雰囲気は分かるが、随分と分かりにくい句だ。
それに比べ、いつか、本人がテレビで「自分の一句」といっていた次の句の方には私は痺れてしまったものだった。
 
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
ご本人の解説も聞いたが、「死者に報いること」を忘れない決意の句だと言った。
 
そして、戦後、旧制高校から始めた俳句を、戦後にどう対して行くか?
師事するのは中村草田男か、加藤楸邨か
 
この二人が、開戦にあたって作った句を紹介してその顛末を語っている。
その二人の句とはこういう句だ。
 
中村草田男
眼前は日火照る寒気と希望のみ
心赤し炭火や灰を削ぎ落し
  全体の中の個として、静かに殆ど肯定的に内向きである、と
 
加藤楸邨
十二月八日の霜の屋根幾万
炭は火に人は眉あげゐたるかな
  自分に自分を勇気付ける、意思的な句だ、と。  さらには、こんな句も。
わが死後も寒夜この青き天あらむ
 
そして、中村草田男を目標として、加藤楸邨に師事しようと決断をしたそうだ。
 
俳句で飯を食うプロを昔、「業俳」といい、
真剣に命を懸けて俳句をやる素人を「遊俳」と呼んだそうだが、
加えて、現在では、花鳥諷詠、現代俳句の流派があり、こうなると俳句も難しい。
 
さて、どう対していくべきか・・・・?
 
芭蕉、子規、虚子を尊奉し、客観写生を目指す我輩としては、
上掲の御三人の句ではこんなのが好きだ。 それ以上は難しすぎる。
 
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる    加藤楸邨
隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな   同
 
萬緑の中や吾子の歯生え初むる  中村草田男
冬の水一枝の影も欺かず         同
 
夏の山国母いてわれを与太と云う  金子兜太
曼珠紗華どれも腹出し秩父の子     同