柴田勝家は信長や秀吉を語るうえで欠かせない人物ですが、なかなか脇役以上の扱いにはならないので武闘派の固定したイメージで描かれることが多いように思います。家が滅亡していると他の大名家みたいに後世に史料が残らず実像が掴みづらいのもありますね。

 

信長は武田や上杉、毛利など各方面の敵を攻略するためにそれぞれに方面軍を組織して、配下の武将を与力大名として加勢させました。柴田勝家であれば前田利家、佐々成政、不破光治などです。この軍団は「柴田軍」「北陸方面軍」として実際に加賀一向一揆や上杉軍と共に戦いますが、与力大名も寄親たる勝家も本来は信長の家臣として対等であり、勝家に直接臣従した訳ではありません。

 

明智光秀にも細川幽斎や筒井順慶などが与力大名として配属されますが、本能寺の変後にほとんど光秀から離反しました。勝家の与力大名たちも賤ケ岳の戦い前後で秀吉側につき、最後まで勝家側として残ったのは甥の佐久間盛政など一部に過ぎませんでした。

いわゆる「世話になっていたのに裏切った」という単純な構図とは違い「私は社長に雇われているので、部長が会社を辞めて独立しても付いていきません」といった感じに近い気がします。

 

本書でも勝家の与力大名はそれぞれ独立性が高く兵力も持っていたので、世の形勢に従って勝家の元から離れたのではないかと解説されています。こうした局面での秀吉の人たらしというか切り崩し能力の高さが不気味に光ります。