今まで小日向台地の神田川沿いの南端の坂をたどってきましたが、ここからは小日向台地と東の小石川台地の間にある茗荷谷沿いの坂をたどります。

茗荷谷はその名の通り茗荷の栽培が盛んだったそうで、現在も細々と続けられています。私はきざんで味噌汁に入れるスタンダードが好きです。
また谷の地形を利用して東京メトロの小石川車両基地が置かれ、谷沿いには春日通りも通り、大学や高校がひしめく文教地区でもあります。
 
 
最初の坂は(27)荒木坂の北、茗荷谷から小日向台地を西に上がる(28)切支丹坂です。幽霊坂とも呼ばれていました。
 

■切支丹坂(下図の28)

東京都文京区小日向1丁目



切支丹坂の名前は、坂上に切支丹屋敷という牢屋敷があったことに由来します。
 
島原の乱ののち徳川幕府は厳しい鎖国禁教政策を敷きました。1643年にイタリア人宣教師ジョゼフ・カウロらが九州に漂着すると、すぐに捕らえられて江戸に送られ伝馬町の牢につながれました。その後、宗門改め役だった井上筑前守の下屋敷(この坂の上あたり)に牢や番所を建てて別に収容されました。これが切支丹屋敷です。
 
1708年にイタリア人宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に漂着した際もここに収容され、新井白石が尋問しています。
白石はシチリア貴族の出身で人格と学識の高いシドッチに敬意をもって接し、様々な対話から得た西洋の知識を「西洋紀聞」「采覧異言」という本にまとめています。
最終的に白石は幕府に本国送還を提案しますが却下され、宣教しないことを条件に例外的に囚人扱いせず軟禁することになりました。
しかし後に世話をしていた老夫婦が木の十字架を持っていて、シドッチが洗礼を行ったことが発覚し、3名とも屋敷の地下牢に移されました。シドッチは翌年衰弱死しました。
 
何だか遠藤周作の小説のような話ですが…切支丹屋敷は1792年までありましたが古地図には見当たりません…ひょっとしたらあまり公にしたくない屋敷内の施設なので書かれていないのかもしれませんが、坂の名前が切支丹坂じゃ隠れていませんね。
 
 
茗荷谷の西端。右のコンクリートの高い壁の上は東京メトロの車両基地です。
 

 
切支丹坂。センスのいい住宅に囲まれた静かなエリアです。
 
 
 
 
坂の上から右に曲がると、とある住宅の脇に記念碑が建っています。悲しい歴史があったとは思えない雰囲気です。
 
 
切支丹坂に戻って上から見下ろしたところ。車両基地の地下鉄の車両が少し見えます。
 
 
車両基地の真下のトンネルをくぐると、茗荷谷の反対側に出られます。
 
 
トンネルの中は不気味なグリーン色をしていました。