太平記の群像46〜花園天皇と後醍醐天皇からの続きになります。
元弘の乱で後醍醐天皇は隠岐に流され、持明院統の光厳天皇が即位します。皇太子には病死した大覚寺統の邦良親王(後醍醐の兄)の遺児・康仁親王が立てられ、光厳の父である後伏見上皇(花園の兄)が院政を始めます。
1333年、後醍醐の綸旨に応じて足利尊氏が鎌倉幕府に叛き六波羅探題を攻めると、敗れた北条仲時らは後伏見・花園の両上皇、光厳天皇を奉じて東国に落ちようとします。しかし佐々木導誉の手の者に阻まれ、お三方は三種の神器と共に京に戻されます。
帰京した後醍醐は光厳の即位そのものを否定したうえで「特に上皇の待遇を与える」と宣告します。
下は後に出家してからの光厳法皇像です。
ところが尊氏が建武政権に叛き、いったんは新田義貞に敗れて九州に落ち延びたものの再度軍勢を立て直して、光厳上皇から義貞追討の院宣を得て湊川の戦いに勝って上洛してきます。
光厳と弟の豊仁親王はひそかに京を抜け出し、男山八幡宮の尊氏の陣に迎えられます。
左が光厳上皇、右が豊仁親王とされていましたが、どう見ても光厳上皇役の人は替わっていますね。
大河ドラマ「太平記」では有名なところでは新田義貞役が病気を理由に萩原健一から根津甚八に替わっていますが、他の細かい役どころでもシレっと入れ替わっていたりするようです。あまり気にしなかったんでしょうかね…。何しろ戦闘シーンのみならず使い回しがやたら多いので、そういう事情もあったりしたんでしょうか。
1348年には光厳の第一皇子である崇光天皇が即位し、花園(光厳の伯父)の息子の直仁親王が光厳の猶子となって皇太子に立ちます。なお直仁親王は実は光厳の実子であったようです。
しばらく南朝方は武将の相次ぐ戦死や後醍醐の崩御で退潮傾向でしたが、室町幕府内での勢力争いが観応の擾乱に発展するとにわかに息を吹き返します。
1351年に尊氏は南朝の後村上天皇に帰順し、崇光天皇は廃位となり北朝は廃止されます(正平の一統)。後醍醐が偽物呼ばわりしていた三種の神器も南朝側に接収されます。
尊氏は直義を追って東海道を攻め下り、鎌倉で直義を捕らえて死に追い込みます。
尊氏が京を不在にしているうちに南朝方が和睦を破り、足利義詮を追い落として京を占拠します。義詮はすぐに奪還しますが、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王を南朝方に拉致され賀名生に連れて行かれてしまいます。