その① からの続きです。
 
後嵯峨天皇となる邦仁王は、父である土御門上皇が土佐に流されると母方の親戚の土御門定通の許で養育され不遇な時期を過ごします。
20歳になっても出家も元服もできず中途半端な状態でしたが、1242年に四条天皇が急死すると鎌倉幕府に後押しされて一躍、皇位に就くことになります。
 
 
1246年には息子の久仁親王に譲位し(後深草天皇)院政を開始しますが、対立していた有力公卿だった九条道家が失脚したため、後嵯峨が朝廷の実権を掌握します。
鎌倉幕府とも協調して、上皇の息子の宗尊親王を宮将軍として鎌倉に送り出します。

以後、北朝:持明院統南朝:大覚寺統と色分けしていきます。
 
 
1259年、後嵯峨は後深草天皇に対し、同じ西園寺姞子(大宮院)を母とする弟の恒仁親王(亀山天皇)への譲位を指示します。
1268年には後深草の息子を差し置いて、亀山の息子の世仁親王が皇太子に立てられ、対立が表面化します。
 
 
1272年、後嵯峨上皇は「次の治天の君と天皇の決定権」を幕府に委ねて崩御します。
困惑した幕府が西園寺姞子に亡き後嵯峨の真意を問い合わせたうえで、1274年に亀山天皇が息子の世仁親王に譲位して(後宇多天皇)、治天の君として院政を開始します。
 
この頃、二度の元寇が起き(1274、1281年)蒙古襲来で炎上した筥崎宮(現在の福岡市東区)の社殿再建にあたって亀山上皇の「敵国降伏」の宸筆が納められました。現在の楼門の額は安土桃山時代に小早川隆景が楼門造営時にその宸筆を臨写・拡大したものです。
また亀山は当時の新興宗派だった禅宗・律宗を保護し、無関普門(大明国師)を開山として南禅寺を勅願で建立しました。
 
 
亀山院政の開始に不満を抱いた後深草は、1275年に太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明します。後深草に近い関東申次の西園寺実兼が執権・北条時宗と交渉して、後深草の息子の熈仁親王を立太子させることに成功します。
そして後宇多天皇に譲位の圧力が強まって1287年に熈仁親王が即位し(伏見天皇)、父の後深草上皇が念願の治天の君となって院政を開始します。
後深草は約2年で院政を停止したため、以後は伏見天皇の親政となります。1289年には息子の胤仁親王を皇太子としたため大覚寺統の反発が強まります。
 
 
伏見天皇は稀代の能書家で「書聖」と呼ばれています。下の画像は「紙本墨書伏見天皇宸翰御願文」(国重文)の冒頭部分で、伏見天皇の作品中でも秀でたものとされています。
また歌人としても知られ「玉葉和歌集」を勅撰しています(撰者は京極為兼)。
 
 
1298年、息子の胤仁親王が即位し後伏見天皇となり、伏見上皇による院政が始まりますが、鎌倉幕府が両統迭立の原則を盾に後宇多の息子の邦治親王を皇太子に就かせます。
 
 
そして1301年、後伏見天皇は譲位を迫られ大覚寺統の後二条天皇が即位します。両統迭立の原則に沿って皇太子には伏見上皇の第四皇子(後伏見の弟)の富仁親王が立てられます。
皇位継承に介入する幕府に伏見は強い不信感を抱き、倒幕を画策しているとの噂が立ちます。伏見の側近で和歌の師でもあった京極為兼は二度も流罪にされていますが、反幕府の動きを見せる伏見への見せしめだったのではないか、とする説もあります。
 
 
持明院統と大覚寺統の争いによって皇位は目まぐるしく入れ替わり、特に1301~1304年は後深草上皇、亀山上皇、後宇多上皇、伏見上皇、後伏見上皇と5人の上皇(太上天皇)が同時に存在した最多記録となっています。