足利尊氏と激しく対立していた護良親王派でしたが、自らの皇子に帝位を継がせたい阿野廉子派からも疎んじられ、建武新政府で冷遇されることになります。廉子の讒言を真に受けてしまう後醍醐天皇もどうかと思うのですが…。
 
赤松則村(円心)は護良親王の令旨を受けて早くに倒幕の挙兵を起こし、六波羅攻めでも活躍しましたが、恩賞として与えられた地元の播磨守護職を取り上げられ(後に新田義貞に授与)元々の佐用庄の領有しか認められなかったため激怒し、大河では「公家に武士の心は分からぬ」と捨て台詞を残して領地に戻ってしまいます。
後に円心は足利尊氏に忠実に従い、室町幕府の四職家のひとつとして幕政に参画する礎を築きます。
 

 
護良親王の縁戚にあたる北畠親房・顕家父子は、顕家が鎮守府将軍として陸奥国への下向を命じられ、親房もそれに随行しました。
ていのいい左遷にも見えましたが、後に尊氏が反旗を翻すと顕家は奥州勢を引き連れてこれを打ち負かすことになり、一時的にも強力な地盤を陸奥に築くことに成功したといえます。
 
大河では顕家は乗り気でしたが、親房は露骨に嫌がっていました。
 
ただし親房は奥州下向に際して、わずか6歳の義良親王(後の後村上天皇)を奉じて同行することに成功します。当然ながら生母の阿野廉子は反対していましたが。

この頃は足利尊氏の名代として幼き千寿王(後の足利義詮)が鎌倉に置かれたり、幼き親王が政治的な思惑から各地に名代として派遣されるケースが目立ち、ろくな医療も無い時代にリスクが大き過ぎるのではないかと不思議でした。
その理由が大河の中で垣間見えたシーンがあったので、それは後日記事にしたいと思います。