倒幕後に上洛した大塔宮護良親王の軍勢にはならず者も含まれていて、京の都で狼藉を働いたため足利高氏に捕縛されました。
宮側は身柄を引き渡すよう要求しますが、都の治安を取り仕切っていた足利直義(高氏の弟)がそれを拒み処刑という強硬策に出たため、宮と高氏の対立はより激しさを増します。
強盗を働いたならず者は、宮の家臣の
殿ノ法印(とののほういん)
の配下でした。
殿ノ法印は良忠という天台宗の僧侶で、二条良実(鎌倉時代に関白、左大臣を務めた)の孫とされますが父親は分かっておらず、伯父の師忠の猶子となっています。摂関家出身のため「殿」ノ法印と呼ばれていたようです。
護良親王が天台座主となってから伺候して宮の配下となり、1333年の六波羅攻めにも700騎を率いて加わっています。
その後の消息は不明ですが、宮が失脚した折に捕縛され、鎌倉に護送され誅殺されたのではないかと推察されています。
短い我が世の春でした。