明治天皇に拝謁する蜂須賀侯爵(元・徳島藩主)が天皇を待っている間に部屋にあった紙巻き煙草を一本失敬したところ、後からやってきた明治天皇がそれに気づいて「血は争えぬのう…」と嬉しそうにからかった、という逸話があります。

 

蜂須賀家の祖先、蜂須賀正勝が元は盗賊だったことを指していますが、実はこの話には続きがあり、侯爵の父は「オットセイ将軍」と揶揄されたほどの子沢山の11代将軍・徳川家斉の22男()で蜂須賀家に養子で入ったため、侯爵に蜂須賀家の血筋は流れていませんでした…。

 

上の話は本書にはありませんが、本書では江戸時代末期の徳川宗家や御三家、御三卿、諸大名の継嗣問題について詳しく解説されています。なかなか世継ぎに恵まれず断絶してしまう血脈が多いなか、先ほどの「オットセイ将軍」徳川家斉やその父、一橋治斉のような傑出した子沢山が現われると養子の供給源となり、血脈に基づく不思議な横のネットワークが幕末には形成されていました。有名な高須四兄弟も美濃高須藩主・松平義建の子供たちですが、義建の父は水戸徳川家からの養子です。

 

徳川家斉

 

将軍家から大名が養子をもらい受けると幕府とつながりができ加増や拝借金の貸与といった経済的恩恵も期待できたことから、あろうことか弟がいたのに将軍家から養子を迎えようとして藩内が対立したケースもありました(無事その弟が相続し、水戸藩主・徳川斉昭となりました)。こうなると「御家第一」が藩祖の血脈よりも藩そのもののシステムの運営維持に傾斜しているように感じます。藩主に他家からの養子が続くと家臣の忠誠心は薄れてしまいますが、逆に養子入りした藩主が藩の家訓に気を使い過ぎて松平容保のように悲劇を招くこともありました。



松平容保

 

もうひとつ、本書を読んで「御三卿」のイメージがガラリと変わりました。御三卿は領地の支配は幕府が代行していたため独自の藩政を司っておらず、知行地から徴収する年貢米を生活費として支給されました。また家老や番頭は幕府の旗本が出向して務め、中下級の役職者のみ直接召し抱えていました。また田安家は途中で跡取りを失い「明屋形」として当主不在のまま家だけ残されていた時期があり、あくまで徳川宗家の控えを置く「場所」としての役割が重視されていたのが分かります。

 

江戸時代末期の幕府や大名家における主従関係の「空疎化」が幕藩体制の崩壊を生み、逆に奇跡的に強い主従関係が残されていた藩が雄藩として時代の変革を担っていった、と言えるかもしれません。