私、マリアンヌ=ローゼンハイムは、その日目覚めさせてよかったのか悪かったのかわかりかねるものを目覚めさせてしまった。

 

 

ーー前世の記憶。

 

 

絆を陳腐化する仰々しい装飾語として使われがちな前世、とやらの記憶と人格は私の上を滑り、僅かに染み込み模様を残していった。と、同時に、その内容にゾッと背筋を粟立たせる。

 

前世のものにも関わらず、私は自分の周りを知っていた。私自身のことも。|画面の中の出来事《・・・・・・・・》、として。

 

 

「おいおい、大丈夫?妹。随分派手に吹っ飛んだみたいだけど」

「あに、うえ」

 

 

いっそ少女めいてすら見えそうなほどくりっとした大きな紅い瞳。化粧をしなくても長い睫毛に縁取られたそれが何の感情を宿しているのか、私にはとてもじゃないが測れない。細身かつ少年と青年の間くらいの外見とはいえ男の骨格をしているくせに、私などより余程男の情欲を誘いそうなあどけない顔立ち。だが彼は軽々と、床に突き立てるようにしていた愛剣を取り回して肩に担いで見せた。寧ろ小さな木の枝か何かではないかと思うくらい重さを感じない動作に次いで、彼は大きく身を屈めて、自分が弾き飛ばした私を覗き込んだ。

 

「……んん?お前、」

「っ兄上!それは、宜しくない行為、では?」

 

飛び退くことなどできるわけもない。逃げる素振りなど絶対に見せられない。動物めいた動きをよくするこのひとの前で下手に反射で動けば、あっさりその剣の餌食になる。鍛えている私がどれほど勢いよく、自分の身長の10倍以上を飛びのいても全く足りない。この鍛錬場丸ごとぶった斬るくらいは平気でできるひとだ。猛獣以上の脅威を前に今すぐ逃げ出したくなる体を久々の全力で押さえ込み、そう呼びかければ、彼はばっさばさの長い睫毛を幾度か動かし、伏せがちのまま止めた。

 

「……ふぅん?」

「……っ」

「……ま、そうだね。それは妹が言うのが正しい。いいよ、何だか知らないけど、今は見逃してあげようかな」

 

長い前髪を透かした向こう、血のように紅い瞳の中に大きく開いた瞳孔を見て、体が勝手に震える。そんな私を数拍眺めて、彼はにっこりと笑った。

 

「じゃあ、今回はここまでね。修行が足りなさすぎるよ、死にたくなければ必死で修練した方がいいんじゃない?」

「……はい、申し訳ありません」

「別に俺に謝らなくていいよ。妹の為に時間を割いてるわけじゃないからさ。君は今の所賢いから、俺は当分は今の役のままで構わないし。乗り換えて下手なの引いても面倒だからさ」

 

何でもないように軽く口にする私の[兄]は、肩から下ろした剣を、これまた軽々と鞘に収めた。体は重く、汗もかなりかいている私と違って汗ばみすらせず涼しい顔をした彼は、手首につけた時計をそっと撫でた。時間を改めるだけではなく誰かを想うその横顔は、いっそ聖女めいてすらいる。この所見るようになったその表情は、目の前でされても誰だこいつとしか思えないほどだ。自分にとっては天災に等しい彼が、一人の女に首輪をつけることを許ーーすまではいっていないようだが、こんな顔にさせられるとは。凄まじい女傑もいたものだ。色んな意味で心底関わりたくないが。

 

「……そろそろ時間だ、僕はもう行くよ」

「はい。お手合わせありがとうございました、いってらっしゃいませ」

「うん。じゃあね、[剣狼姫]。折角強そうな名前なんだからもう少し腕を磨いておいてね、恥ずかしいから」

 

酷い言葉を言い捨ててあっさり踵を返した軍服姿の青年、の姿の男を見送って、靴音が聞こえなくなり、それから数十秒を待って……私はゆるゆると息を吐き出した。

 

「は……ぁあ…………」

 

緊張で強張っていた肺を動かしたせいで、僅かに痛みすら感じる。何度か深呼吸を繰り返してから、座り込んだままだった体を立たせた。草摺りや服の裾を気分的に叩いて、風を操って大体の砂や石ころを飛ばす。刃こぼれ一つない剣を鞘に収めてから、私はとりあえず出口へ足を運び始めた。

 

(……マリアンヌ=ローゼンハイム。……マリアンヌ=ローゼンハイムかあ)

 

よりにもよって。よりにもよってこの立ち位置だ。まさか|主人公《ヒロイン》になんてなれるはずもないが、それでも何でここ。あっさり巻き込まれて死ぬんでもいいから名前も立ち絵もないモブが良かった。うわあー!とか、きゃー!とか、どうしてとか、助けて、とかそんな程度の台詞しかないガヤのような存在であってくれても良かったじゃないか。

 

ーー悪魔の契約と|紅鍵《こうけん》|の姫《アリス》。

 

前半はともかく後半が全く素直に読めないこれは、私がかつてかなり気に入ってプレイしていた女性向けアドベンチャーゲームの内の一本だ。攻略対象の数がめちゃくちゃ多い上にヒロイン含めてキャラの癖が強いわ独自用語が多いわ糖度よりもヒロインの器や覚悟が試されるわで、コアな人にしか受けなかったマイナーなPCゲー。

 

主人公・ユリア(名前変更可)はある日、学校の帰り道で大事にしていた鍵を落とす。いつから持っていたか知れないそれを落とした音に気付いて振り返った先には、鍵を拾った男がいた。鍵を受け取ろうとしたユリアは男にそのまま攫われ、得体の知れない世界に連れて行かれてしまうーー

 

という西洋の児童文学のパロディ……というか何というか、な話である。実際の所導入部分や攻略対象及びグラ付きサブキャラのポジション名こそなぞらえているものの、本筋や各ルート内容には全然関係ない。話の本筋としては[札持ち](=攻略対象達)を篭絡し契約し従える、というものだからだ。曲者揃いの[札持ち]達が舐めてかかっていたヒロインに陥落し執着する、という姿を見るのも楽しかったが、何が楽しかったって手を替え品を替え[札持ち]達とやり合うヒロインの勇姿を見るのが好きだった。最後の最後、彼女をかっさらいに来たくせに付かず離れず胡散臭い笑顔で貫き通していたA、エリック=ローゼンハイムが観念して彼女に膝を折った時は達成感に拳を握ったものだ。

 

 

……そう。エリック=ローゼンハイム。

 

私は、マリアンヌ=ローゼンハイム。

 

 

ハートの城の特殊な騎士として、王の命令以外には従わない特権軍人。長髪とはいかないまでも長めの明るい茶髪に紅の瞳、少年と青年の間くらいの姿の彼は、少女めいて見える可愛らしい顔をしているけれど、軍服に茶色の防寒用ジャケットを羽織った彼は、人ならざる力で振るった長剣で簡単に山一つ消し飛ばすーー私の[兄]、だ。

 

前世の記憶と今世で知り得たことが脳内でぐるぐると回って混ざって……頭を抱える。待て何だこれは。設定を練ってあるなしを問わずに、ある程度の知識や教養があることを要求される情報が描写されないのは乙女ゲーにはよくあることだ。特に昨今はメーカー、プレイヤー共に恋愛要素に殊更重点を置いているから、世界観や設定が大して出てこない、表面を撫でるようなのも多かった。だが……だがこれはないだろう?というかこれは本当に同じ世界か?

 

あの[兄]が剣で山一つ消し飛ばすのは何ら疑いがない。というか山一つで済むのかと問いたくなる。 問題はそこじゃない。

 

発売の決まった|FD《ファンディスク》で明かされるのではないか、とは言われていたが、ゲーム内では[札持ち][役]といった独自用語や、ヒロインのバックグラウンドに関して全く掘り下げがされていなかった。かなりキャラが濃いにも関わらず、心中で動揺を押さえ込んだり指示語を多用することでプレイヤーにすらヒロインの考えること全ては読み取らせなかった。プレイヤーは完全に傍観者である。乙女ゲーという括りに突っ込んでいいものか少々迷うレベルでプレイヤーの自己投影を拒否している。だからマイナーだったんだろうけど。

 

話が逸れたが、それが何かというと、現在の自分の知識を照らし合わせると、その伏せられていた情報が僅かにある。だがそれは、ゲームで思っていたのとは全く違う話だった。

 

 

 

——

 

 

 

 

まず、私マリアンヌ=ローゼンハイムは[兄上]とは血が繋がっていない。というか戸籍上も関係ない。更に言うと、この国に戸籍は存在するがーー私と彼、エリックや[札持ち]達は戸籍に登録されていない。私の場合は削除された、が正しいが。

 

私は彼に与えられた[妹]という[手札]だ。

[札持ち]達は紛う事なき特権階級であり、騎士だろうが下町で暮らす無職だろうがスラムの研究者だろうが、国内では実質的に王と対等。同じテーブルについて[ゲーム]をする方達。配られた札と役に合わせて日々を過ごしていらっしゃるという、常人の神経をしている私には微塵も理解しかねる方々である。

 

王と対等、というのは一般的には知られていないし、特権階級であることについても国外に情報はない。私も[持ち札]として選ばれるまでは全く知らなかった。地方の伯爵に仕える騎士の三女、だった。[持ち札]として召し上げられてからは家名どころか名前も捨てたが。

 

 

そう、私は元々マリアンヌではなかった。元の名前も目や髪の色も、全て捨てさせられた。

フラついた体を支える為に柱に手をつけ、窓に映る自分を見る。[兄]と全く同じ、明るい茶色の髪はきっちり結いあげられ、血のように紅い瞳は吊り上がり気味なのが更にきつく見える。顔立ちこそ変わらないけれど、昔とは全然違う、この容姿。あの日両目に数滴の血を落とされ、存在丸ごとあの男に染められてから始まった[マリアンヌ=ローゼンハイム]の日々……まさか、こんなことになるなんて、かつては全く思いもしなかった、けれど。

 

 

 

グリーブに包まれた手が柱の石材を握り潰しかけて、慌てて力を抜く。一つ息をついて、重い体を引きずってまた歩き出す。……まさか、まさかと思いたいが、あのゲーム通りに、事が運ぶのか。やめろ、それは勘弁してくれ。プレイヤーとしては|脇役《サブキャラ》や|モブ《有象無象》がライターの都合であんまりな目に遭っていても白けたり、ライターの性根を疑ったり、そのライターやディレクターの作品を買うのやめよう、なんて思うだけで済んでいた。性格が悪い?あのエリック=ローゼンハイムの妹なんだから当然だ。

 

 

だが、それが我が身に降りかかるとなれば話は別だ。

バトル要素の存在する乙女ゲーの脇役の未来なんてろくなもんじゃない。ヒロインを命と引き換えに守って最期の想いすらヒロインの決意や覚悟に利用されたり、ヒロインに正論を言っては吊るし上げられ処分されたり、外側のスペックだけは高い攻略対象に片想いしてその相手の異常性アピールの為だけに殺されたりする。凄い。酷い。どうせ殺すなら肉だけじゃなくて骨から何まで使い尽くしてやろうという気概に満ち満ちている。私達は鯨か何かか。

 

勿論、色んな意味で登場人物を無限に増やせるわけでなし、様々役割を持たされるというのは分かる。作る側としても、読む側プレイする側としてもそんなのは無理だ。元々あのゲームは攻略対象の数がずば抜けて多かったし、サブキャラなんでそんなガンガン増やしてられないだろう。わかる。わかるとも。問題はやられる側に立ってみるとふざけるなと言いたくなるという話で。

 

 

マリアンヌ=ローゼンハイムの致死率は、大体20%弱だ。

 

幸い、マリアンヌは攻略対象の誰かに横恋慕や片想いするタイプのサブキャラではない。勿論ヒロイン相手でもないし、ヒロインに対して劣等感を抱く事もない。マリアンヌに死が訪れるパターンは大体三つ。ヒロインへ疑いをかける、戦闘の中で死ぬ、[札持ち]の目について死ぬ。この三つが殆どだ。ゲームの内容に沿うとは限らない以上、何がどうなるかわからないが、ゲーム内容は基本的には覚えているからゲームに基づくなら多少の対策は取れる。

 

だが……だがこれは本当にゲームの世界、なんだろうか。私の把握している中では[札持ち]達の容姿や名前は一致しているが……一歩間違えば私の命は間違いなくない。ゲームに関係なくても、だ。私の命など糸屑以下にしか思っていない|輩《[札持ち]》は幾らでもいる。

 

 

そう、例えばーー

 

 

「……おや、【剣狼姫】」

 

 

……この、宰相閣下とか。

 

 

 

——

 

 

 

 

 

「ご機嫌麗しゅう、宰相閣下」

 

胸に手を当て、角度を守って一礼する。顔を上げると、私と同じく真紅の瞳を持つ彼は氷のように冷たい視線で私を眺めていた。

 

「この時間は騎士殿と鍛錬のはずでは?」

「兄は本日は何方かと約束があるという事で、早めに切り上げました」

 

言葉少なく、簡潔に返すと、宰相は細い眉を神経質に跳ね上げた。……私が一応伏せた概要は、優秀な宰相閣下に一瞬で見抜かれたらしい。まあそりゃあ気に食わないだろう。風当たりこそきついが、彼もまたある意味|《ヒロイン》に執着する一人だ。ゲームは勿論、この世界でも。

 

「……今回の[剣狼姫]は随分と無様なようですね」

 

紅い瞳がちろりと私のドレスの裾をなぞる。粗方吹き飛ばしたのだが、宰相閣下の慧眼の前では無意味だったらしい。足留めもできない無能は今すぐ首を掻き切って死ねと言わんばかりの目にもう一度頭を下げて、「至らぬ身で申し訳ございません。不徳をお詫び致します」と返す。

 

と。

 

予備動作なしに私の額に押し付けられた銃口を大人しく受け入れる。うっかり反射で逃げないように体を押さえつける事が肝心だ。それこそ、不敬だと問答無用で殺される。

 

「この場で私が葬ってやっても構いませんが?その程度の腕ではエリック君の相手も辛いでしょう」

「慈悲に感謝致します」

「……チッ」

 

凄まじく忌々しげな顔をした宰相閣下は派手に舌打ちした。額から下ろされた銃口が私の二の腕の半分程を吹き飛ばす。だがそれも正直予想の範疇で、私は痛覚を遮断した。それでもあっという間に濡れていく腕が衝撃で熱いわ気化熱で冷たいわで気色が悪いのだが。

 

「不敬と不徳はこれで許してあげましょう。すぐに掃除をするように」

「は」

 

フン、と鼻を鳴らして去っていく背中を見る事もせず、とりあえず滴る血を落ちないように宙で受け止める。人間の血が赤く、自分がハートの城に所属する持ち札であることに感謝しつつ、私は回復魔法と血液の操作をした。

 

細かいことはよく知らないが、札持ち達がしているゲームのルール上ハートの城所属であれば赤と心臓に関する補正がかかる。炎、鼓動、血液などが目玉となる対象で、持ち札に過ぎない私でもただ心臓を消し飛ばされたくらいでは即座に再生して死なずに済むというトンデモぶりだ。身体強化にも優れ、白兵戦に秀でている……と言えば聞こえがいいが、頭を丸ごと吹っ飛ばす勢いでないとゾンビの如く復活し続けてくる。

赤い絨毯の色を濃くしていた血液を残らず体へ納め直し、体組織の修復も終わらせてから痛覚を戻した。どうも衝撃でびりびり痛むが、まあすぐに何とかなるだろう。宰相殿の薬莢を拾いながら、私はまた一つため息をついた。

 

「……どうしたものかな」