ぷでござんすよハイホー。
「不幸にする親」(ダン・ニューハース 著/玉置悟 訳)
読み終えました。
財政的な問題があるので中古で送料込み400円ほどで
買いましたぞ。
読みだしたら膝ズシャしたり交感神経上位になったり
兄弟に腹を立てたりしかしそれは半ば八つ当たりに似ているな
とか思ったりと忙しい脳内・メンタルで過ごすことになりました。
読んでみて思ったのは、とりあえずここまでの段取りとして
私はいい線行ってたな、っていう感じです。
同時に親子関係に言及されていることで、より自分の人生の
困難さを知ったというかなんというか。
なんかもうほんと、面倒。
癒しとか自己肯定とか生きていくために必要だとは言われても
どんだけの努力を要するのか。
努力しててもまったく人に理解されないし
とはいえ頑張ってるねって言われたところで「あ、はい」って
感じだし今私はやさぐれているのか。
それに加えて熱中できるものを見つけるとか
自分を愛せとか、普通(ってなんや)に生活できている人は
一体人生をどういう風にとらえて生きているのか
こちとら荷が重すぎてまったく勝負する気になれないぜ。
たとえば30万くらいガチャに突っ込んでSSRコンプする
廃アカウントと、無課金ガチャでほそぼそと命をつなぐ
雑魚アカウントみたいな感。
いや、30万は突っ込みすぎだろ。一か月余裕で生活できるぞ。
それが熱中できるもので支払い能力があるなら問題ないのか。
親戚の、すくなくとも真っ当だと思ってる人へ手紙を書いた。
母の実の兄弟に当たる人で、私が母からどんな扱いを
受けていたのか、またそれを原因として私が他人から
どういう仕打ちを受けたか。
母子仲良さそうに見せていた私について、いったい
どんな感想を持つのだろう。
家の中で起きていたことは外部に漏れにくい。
だから母も外では「ぷちゃん」なんてちゃん付けで呼んで
いかにも良好な親子関係をアピールできていた。
彼女は私の未来を自分のために消費しようとしているのに。
伝わるだろうか。
伝わらなかったら「ああやっぱりだめか」ってなるだけなんだが
しかし私は伝わって欲しいから手紙を書いたのだ。
その手紙で母を糾弾してほしいわけではなくて
見えないところにある本当のことを知らせたかった。
私が生きることについていかにエネルギーを使っているのか
親戚だけじゃなくできれば町内放送くらい使って知らしめたいくらい。
しかし関係ない他人にはお茶請けのお菓子程度のこと。
なんなら他人の不幸はおいしい蜜だし。
私自身も、ほかの人の不幸について知ったところで何ができるか
さっぱり分からない。
どんな言葉や態度が、その人を生かす糧になるのか。
ひたすらに、支え合える相手が現れることを祈るばかりだ。
しかし祈りが一体なんの役にたつのだろうか。
やさぐれているな。
ここで「私も傷ついた人々の幸福を毎日祈ってる」とかで
締めればなんかいい話みたいな感じで終われるんだろうけど
微塵も思ってねえ。
私たち(と、we文章を使う)に本当に必要なのは効力のある現実的な
アクションだ。
一人で黙々と精神性を高めていくとか解脱でもする気なのか。
この現実的なアクションとは、虐待があることがもっと公になり
言葉にすることが出来る社会になることなのではと思ったりしてる。
でもそれを受け入れる土壌がない。
まだまだ黙っている。
お喋りなのはブログの上だけだ。
どうでもいい芸能人のゴシップを聞かされながら
感心したようにうなづいて見せる日々だ。
他人の面倒が嫌いな人々と、他人の不幸がおいしい人々と
いくつかの答えを持っている人の区別ができない。
づらづらと取り留めもなく書いたなぁ。
私はどこへ向かってるんだろうな。
でもこれも一つの確認作業なんじゃないかなー。