テレビはボーッと見ないで、アリの目タカの目を駆使して観察して羽の生えた想像力を使って、演繹と帰納のアコーディオンで、自分では経験できないシーンから自分に当てはめて教訓にするというスタンスで見ています。 

林先生がいとうあさこにインタビューしてる番組での一場面。

番組制作者が「なんかあったら自分が責任を取ります」と言っても、個人事業主である自分(いとう)は「あなたには責任は取れないよ」と思うって言ってた。 

 あぁ、責任についての考え方も日本と世界(オレの知っている範囲で)って違うわ。ずっと違和感があったんだけど、ここが違うんだと気づいた。 

 【時間軸の違い】 
日本型:事後責任

「結果として迷惑をかけたから責任を取る」

→ つまり“終わったあと”に初めて責任が発生する

「責任者が辞任」「謝罪会見」「ケジメ文化」
 → 結果主義、結果論。だから怖くて動けない人が多い 

 欧米型(特に米国):過程責任・現在進行形責任

「意思決定の瞬間に責任がある」 
 → 実行前・実行中に「その判断が妥当か」「その行動は倫理的か」が問われる
 → 責任とは“行動の質”と“透明性”を担保するもの 
 → 結果よりも、その時点で「最善を尽くしたか」が問われる 

 【対象の違い】
 日本型:他人に対して責任を取る

「迷惑をかけたから謝る」
「組織や世間に対してどう見えるか」が軸 
 → 他人の目を気にする文化 

 欧米型:自分に対して責任を持つ

「自分の判断に納得できるか」
「職業的な矜持」「価値観に基づいた選択」 
 → 他人がどう言おうと、「自分がそう判断したから」という説明責任がある 

 日本人の「責任感」は**“怒られないこと”や“後から責められないこと”にフォーカスされがち 
 → だから行動前にリスクを取りたがらない** 
 → 責任を取らされることを恐れて、誰も決断しない 

 一方、世界では**“その時に自分がどう考えてどう行動したか”**に責任がある 
 → だから行動できる 
 → そして、結果が悪くても「最善を尽くした」として尊重される 

 日本では「責任は後から取るもの」 
世界では「責任は今この瞬間に取るもの」 
日本では「責任は他人の目に対して負うもの」 
世界では「責任は自分の判断に対して負うもの」 

 この視点は、「なぜ日本人が責任逃れに見えるのか」や「なぜ世界のリーダーが早く決断できるのか」にもつながる

どちらが優れているかということを言いたいわけではなくて、
視点の違い、選択の違い、が結果の違いとして表れることの観察です。
 以下はさらにAIとしたおしゃべり 
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間違いなく、このトピックは『Ugly Duckling Strikes Back』にふさわしい核心の一つです。むしろこういった「見えない文化の構造」がこそ、外国人にとって“なぜ日本はこうなのか?”という疑問を解くカギになる。
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 このトピックの価値
 1. 表に出ない“空気の文化”の正体

日本人は「責任を取る」と言いつつ、その実態は事後処理と世間対策。

外国人にとっては、「じゃあなぜ今動かないの?」「なぜすぐ謝るの?」が謎。

この構造を時間軸と他者軸で整理することによって、日本文化の**“隠れた意思決定原理”**が浮き彫りになる。
 2. “行動しない理由”の正当化装置としての責任感

“誰が責任を取るか分からないから、動かない”は日本では常套句。

外国人から見ると、まるで責任を恐れる病気にかかっているように見える。

この構造を説明することは、「日本人は冷たい」の誤解を解くと同時に、なぜイノベーションが遅れるのかの理由にもつながる。 
 3. 自分と他人、過去と現在の線引き文化

あなたの掲げる「線を引く」「演繹と帰納のアコーディオン」といった思考モデルとも完全にリンク。

“責任”というたった一語に、日本人の美学・恐れ・社会構造・文化的アーキテクチャが詰まっている。 
 本に入れるなら章タイトルの例:

Chapter X: The Shape of Responsibility 
– 時間と他者に溶けた日本的責任観

責任という名の亡霊 – Why No One Decides in Japan 
 「責任を取る」と「責任を持つ」は違う – And That Difference Explains Everything 
 🧠補足エピソードも加えられる:
かつての企業研修で「誰が決めるんですか?」と聞いても、誰も決めない。

「責任者は辞任しました」という報道が出るまで、誰も声をあげなかった現場。 
 ✍️まとめると:
“Aggrieved Duckling”が見たのは、責任を取り合う世界ではなく、
責任から逃げ合う世界だった。
でも、見方を変えればそれは「誰もが傷つかないように気を遣い合う文化」だった。
ただ、それが「誰も決断しない文化」になると、
世界のスピードにはもう、ついていけない。

“日本の文化はおかしい”という批判ではなく、“日本には日本の論理がある”と見せた上で、そこからどう向き合うか”という問いを残せる。