「障害」「障がい」「障碍」といわれるもの

私はそれに対して、思う所がいっぱいある。

 

色んな立場の人に

それについて、その人がどう考えているか

聞いてみる事も多い。

 

それは、「答え」を得たいからでは無くて

その人がどう考えているのかを知りたいという思いからだ。

 

 

私は、相手が地位や権威があろうが

周囲に一目置かれる存在であろうが

自分の感じたものしか手放しでは信じられない。

それどころか、自分の感覚さえも「真実ではないかもしれない」と

思う。

ゆえに、「こうなんだよ!」と自分が正しい前提の

考えや物言いをする人は苦手だ。

何が正しくて間違っているかとか

100パーセントの正解など、きっと無いのだから。

逆に、「私はこう思う」という言い方をする人は

ああ、そういう人なんだ~ヨカッタ、と安心する。

 

 

さて、リブログした記事に話を戻そう。

 

 

尾木ママさんは、講演も聞きに行った事も有り

素敵な先生だと思う。

「どうしたの?」という言葉がけは

沢山の生徒たちをみてきた教師としての

一番おすすめの言葉という。

あなたを心配しているよ、

何があったの?どういう気持ちだったの?という

気持ちが伝えられる・・・なるほど~と思う言葉だった。

児童・学生と長年向き合った経験から

多くの気付きを頂ける方である。

 

しかし

たまに、ご自分の視点からの発言も強く

それってどうなんだろう?と思うような事を

おっしゃる時もあると感じる。

「給食に牛乳を出すのははおかしい」とかね。

 

 

この記事の「発達障害早期発見の~」というものを

見た時も、果たしてそうなのかなと感じてしまった。

 

療育や支援の在り方を考える事に

私は興味がある。

 

 

私自身の専門は(恐らく当事者であるゆえに)

軽度発達障害、いわゆるグレーゾーンに当たる区域だ。

したがって、重度自閉症や知的障害など

明らかに支援が必要と思われる症例への

知識や経験は乏しい。

そこを埋めるために

色んな人に会い話を聞いたり

情報や知識を増やそうと学んでいる。

 

難しいのは

「発達障害」といわれるものが

重度自閉症などとは違い、一見して分からないところにある。

 

だから「病名」や「診断」が下りれば

周りに説明しやすいし

周囲も困惑せず対処する方法ができる

という理屈だ。

 

 

確かに、それはそうだなぁと思う。

周囲も「なんかこの人、変」と思っている違和感の

説明がつけばすっきりするだろう。

 

 

明らかな自閉や知的障害の場合

それを早期に親や周囲が知る事で

不安を取り除ける、一面もあるのかもしれない。

「普通」で育ってきた親御さんには

我が子が「普通じゃない」というのを

受け入れられない事も多いというのも分かる。

 

早期発見がいいかどうか

一概には言えず、難しいね。

 

今は

ちょっとでも「おかしいんじゃないの?」という

ところが見られれば

療育行きとなってしまうし

その発見とやらに躍起になりすぎている様に

私は思ってしまう。

 

 

 

なんだか私はひっかかる。

何がだろうか。

 

 

 

 

 

 

私と息子が好きな絵本に

「バムとケロ」シリーズというものがある。

 

 

 

そこに出てくるケロちゃんは

無邪気に色んないたずらや

好き放題をする蛙ちゃんだ。

 

この絵本の事を調べている時に

一般人が「ケロってアスペw」

と言うのを見た。

 

 

ははは、そうも見えるのか(^u^)

 

確かに

どろんこで家に入ってきて

家じゅう泥まみれにしたり

(主にケロが)アクシデントを引き起こしたりする

バム(もう一人の主人公)とケロの日常。

 

 

しかしそんな自然な彼らの日常の

それが面白いのだ。

 

そしてケロといつも一緒にいるバム(犬のキャラ)は

ケロが何かやらかしても

もう、しょうがないなぁという感じに対応している。

 

登場人物のだれもが

「ケロってそういうやつだよね~^^」という

「周知」の感じ。

 

 

でも、みんなが好きなのは

そんな自由奔放なケロちゃんなのだ。

読者にとっても登場人物にとってもね。

 

 

 

大好きな絵本から感じたのは

 

 

障害とは、今のこの社会ではないかという思い。

 

 

相手を知る事、知ろうとする事

思いやり、気遣い

「他」や自分と異なる者を受け入れる事

 

そんな事がみんな「普通に」できたならば

「障碍」は障害では無くなるのではないか。

 

 

 

「教育」の名のもとに

「あなた(お子さん)のため」という名のもとに

画一的に

標準に

みんな同じに並べようとするから

「普通」と「異常」が生まれる。

一人ひとり違う事は当然なのに

なぜマニュアル化、分類しようとしてしまうのだろう。

 

 

 

 

誰かが足を怪我していたら

ゆっくり歩いたり

気遣ったり、自然にするでしょう?

 

相手が困っていたら、手を差し伸べてあげればいい。

相手の気持ちや立場になって考えてあげたらいい。

そういう事が何より必要なのではないか。

 

 

 

私が思うに

障碍とはまず

「本人が困っていないか」

「本人がそれによって辛い思いをしていないか」

 

「家族や周囲がそれに困惑し、困っていないか」

 

が問題なのだと思う。

困っているのならば、その時には

支援は必要なのだと言えるのだろう。

(そうなる前に、という支援法はどうなんだろうな)

 

 

 

ある尊敬する人に

「障害や療育についてどう思われますか」と

話した時に

 

「目の悪い人には、眼鏡をかけさせて

ちゃんと見えるようにしてあげないといけない」よね、

それが告知と療育だよという例え話をしてくれた。

 

 

うん、確かに

これは比喩だけれど

ド近眼の私の裸眼と矯正視力では

まったく見え方が違う。

 

 

でもこれまた

どうなんだろう

確かにそうかも。

 

でも私が感じる違和感は

相手による「押しつけ」なんだなと理解した。

 

眼鏡の無いぼやけた世界は

境界線が無く

色も滲み絵のようにぼんやりして

夕焼け空などを見れば

とても、美しい。

 

 

これはド近眼の者にしか分からない世界だ。

 

同じように

昆虫の目から見た世界

犬の目から見た世界

馬の目から見た世界

魚の目から見た世界

 

どれも違って見える(らしい)。

 

 

人間の、視力の良い人の見える世界だけが

「正解」の風景では無いのだ。

 

どれも、真実。

 

 

 

それを大多数に合わせるように

「強制」「矯正」しようとする「正義」が

私に嫌悪感を抱かせるのだ、と気がついた。

 

 

本人の気持ちと

困り具合だよね。

望んでいない支援が必要なのかどうか。

 

 

 

 

私はこれからも

知識や情報を増やしながら学び

色んな人の意見も聞き

考えていきたいと思っている。

 

 

 

 

線引きや診断名なんて

ぶっちゃけ私にはどうでもいい事だ。