祖母が亡くなったのは、たぶん16年ほどまえのこと。
ばーちゃん不孝な孫だので、命日もよくおぼえていない。
祖母は学歴には無縁で、ろくに初等教育すらうけていない。
孫ばあちゃんだったかの、身の回りの世話をしていた、ときいたことがある。
義理の父親に邪魔にされ、食べることにも苦労していたらしい。
若くして口減らしのため嫁がされ、相手を戦争で亡くしたかで、すぐ再婚させられる。
苦しい生活の中、働いて働いて、心の弱さからか淋しさからか、宗教につぎつぎ入信し、いくつものおしえをまなんだらしい。
もともとの賢さもあってか、文字をすらすら読み書きできるようになり、手紙もよくもらった。
「かほるちゃんへ」と書かれた年賀状をおぼえている。
前夫とのあいだにも再婚のため引き離されたこどもがいて、じーちゃんとのあいだには、ふたり。
ふたりとも、親不孝。
おじは親を金づるにしか思っておらず。
母は喧嘩の絶えなかったふたおやをこのましくおもっておらず、孫であるわたしに、「ふたりともきらい」と断言していて。
いろいろあって。
おじは祖母に「いっしょには暮らさない」と告げ、それをきっかけに崩れた。
祖母はこころのどこかをおかしくしてしまい、施設に入所する。
入所してから正気に戻った。
だから養護施設ではさぞ不自由ではなかっただろうか。
ながくいきたほうだとおもう。
とても丁寧にお世話していただいて、施設のかたにはいまも感謝している。
ろくに会いにも行かない薄情な家族だったけれども。
亡くなったと連絡が来て、混乱しながらできるかぎりのじゅんびをしたとおもう。
葬儀屋さんに相談しに行って、できることを必死でしたとおもう。
喪服のじゅんびも、自宅につれてくるためのじゅんびも、したはず。
母は、ろくになにもできずで、じぶんでどうにかするしかなく、おじはフェリーできたんだ・・・。
緊急時にすぐに駆けつけることもなく、家族揃って車で、帰りに観光するために。
お香典や遺された現金目当てで。
いちども施設には面会に行かず、亡くなったときにすらあてにならず、選挙と新聞のお願い以外でろくに連絡もこず、借金のお願いはされたことはあったか。
断ったけれども。
おじ夫婦は「お金がない」って祖母のお骨の前で言い争いまでした。
あげく、なにもてつだいもせずだったのに、通夜振る舞い、というのか食事から何から手配して支払いもしていたわたしに「子供の出る幕じゃない」とのたもうた。
わたしは26歳くらいだとおもったが。
なにかおじにとって都合の悪いことを、わたしが口にしたのだろうけれども。
納骨も自費で富士山の麓まで。
場所もわからず、北海道から母とばーちゃんをつれて。
方向音痴のいなかっぺがよくたどりつけたものだぁ・・・・。
ばーちゃんのお骨は、富士山の麓でじーちゃんのお骨といっしょになれた。
めでたしめでたし。
そいで永遠におじさんたちとは無縁でいいとおもった。
そしたら命日もいっしょに忘れた。
しらべればいいのだ。
だいすきなバンドのライヴが49日の前日だったはずだから。
納骨の前日に、ライヴに行ったのだもの。
ばーちゃんありがとう。
わたしはこのあとしばらくしてから、ようやく涙をおもいだして、わぁわぁ泣いた夜がいちにちだけあった。
たぶんへとへとだった。
職場でどうしても理解できない身内のごたごたをきかされて、くたびれていた。
しごとを、辞めた。
そいで。
現ちゃんとMAGUMIさんといっしょに、パスポートのいる旅行に行った。
海外なんて、どうして行けたんだろう。
いまも謎。
行きたいとおもったことがまったくないし。
そのご、その職場にもどってまたお世話になった。
また身内のごちゃごちゃはきこえてきたけれど、雇用主を信じていたので、にどと揺らぐことがなかった。
むかしばなし。
母とふたりで使えるように選んだ礼服を出して着たので、なんとはなしに。
葬儀には、エナメルのつやぴかは避けるべきだとか。
正式には布地の靴とバッグなのだとか。
なんちゃってものでも真珠だとか。
わからなくてしらべたんだ。
ばーちゃんありがとう。
いまも役に立っている。
命日にそろえたお数珠はいちどなにもしていないのに割れたんだよ。
わざわいを吸い取ってくれたのか、あたらしくしてからはなんともないけれどもさ。
真珠と紅水晶だっただろうか。
あすもがんばろう。
おみおくりだ。