高度な知的生命体と相対した事のある人の話によると、彼らの強い種族の者たちは、周囲に存在している者たちを動かないようにしたり、行動を操ったりすることができるそうです。そこにいた人は自分の意志に反して瞬時に何も身動きが取れなくなってしまったと書いていました。
もしもそんな生命体が集団で地球に降り立てば、人類を自分たちの思いのままに操って奴隷か召使いのように働かせたり、聞き従わない人間を瞬時に消すことも簡単にできるでしょう。
(聖書の中にもそのように強い“み使い”の記録があります)
それでも基本的に彼らに与えられたのは宇宙領域で存在することで、、
地球は、特にエホバの像を表す者として造られた人間のために用意されました。
そして誰しもが自ら進んでエホバご自身とその目的を理解して宇宙と地球の平和と各自の本当の意味での幸せを手に入れる事が出来るようになることを願っておられるので、
そのような強い知的生命体のやり方で完全に地球を支配することは許して来られませんでした。
エホバは進んで人間の至らなさをずっと辛抱して来られましたが、ご自身の高い基準を曲げる事は決してされません。もしもそれを曲げられたなら、宇宙の平和と調和は乱されたままであり、悪や不幸は絶対に無くならならず、希望は何もない事を意味します。
今は反逆者たちの存在とその活動を許しておられるので、世界は混乱していて人間は誰しもその影響受けたり自分の選択によって、苦しく辛い人生があります。
でもそんな中でも、何故混乱して不幸なのか、世界が平和と調和の取れた状態になるため、皆で幸せになるためにどうすれば良いのかを、心から知りたいと願う人にはそれが見つけられるように、情報は隠されていませんし、自分は弱いと思う人であっても心から望むのであれば試練をくぐり抜けられるサポートも用意してくださっています。
それを受けたいと思うのであれば、心からそう願っていることを各自が自覚して表明して掴み取るように行動する必要があります。
掴み取る。という意味には、他のどのような道であってもそうであるように、
謙遜な態度で求めることも含まれますが、それは当然なことです。
今の世界は、何もかもが溢れるほど豊かにあり物質的なものだけではなく、精神世界においてもジャンクフード的なものから深淵なものまで多種多様な情報に溢れているので、
簡単に自分を満足させてしまうものを見つける事も簡単なのかもしれません。
でもそれ故に、いちばん大切なものが何なのかを見極めるのがとても難しく、真理とその神エホバを探求することをせずにも満足できるようになってしまいます。
あきの介はそれこそが“ポスト悪魔サタン”の目指すところ、悪魔サタン自身の“お仕事”なんだろうなと思っています。
聖書では、
『賢くあるように、
理解を求めるように、
臆病にならないように』
勧められていてそのための助けも用意されています。
エホバの証人は“組織化”されることで、その規模と活動範囲の意味においては文字通りに世界中に音信を届けてきたと言えるかもしれませんし、そうなるためには深い知恵が無ければ達成することは出来なかったでしょう。
(それだけではなく、聖書の音信やそこに集う人々に引き寄せられた人の中には、
家族に恵まれず自分の居場所のない人に居場所と為すべき勤めを提供し、
自分の育った家庭環境が不安定だったために、
子育てや夫婦のあり方、人間関係の良いモデルを知らずに悩む人が、良い視点に気付けるよう促して来ました。
更にただの主婦だったり、何の特技も無く引っ込み思案な人でも、集会に集って参加するだけで論理的に考え、人前で自分の意見をはっきり語る事が出来るようにトレーニングされます。
そしてそれはすべて無償で行われるプログラムでした。
自分が受けて来たそれらをゴミのように感じて人前で吊るし上げるのか、感謝して受け止めプラスになるよう適用するかどうかは本人次第ですが)
なので、知ろうとしたけど見つからなかったと言える人はいないようになるか、もしかしたらもういなくて、
これからは各自が自分はどうするのかどうしたいのかを自覚してそれを表すための時間と言えるのかもしれません。
エホバの名を掲げる組織の、行ってきた方法のすべてが、本来のエホバの特質を反映していたとは言えないのは事実で、
それゆえに傷を受けたことも事実かもしれません。
エホバは心をご覧になるので、特に2世達のそのような潜在的な不満をご覧になって、それを達成したり、失ってきたと思ったものを取り戻し傷を癒して自分を回復させるための時間も与えられたことでしょう。
(それを別な誰かのせい何かのせいと、感じるのもまたひとりひとり違うことでしょう)
jw経験者ではなくエホバを直に知らずに育った人たちにも、2世よりも酷い仕打ちをする毒親に育てられたり、超過酷な人生を強いられてきた人も沢山いて、でもその人たちすべてが一般的な意味での神を呪っているかと言うとそうでもないように見受けられます。
エホバは宇宙最強の神でありながら、縁の下の力持ち、若しくは最奥の陰の功労者として誰も認知出来ないレベルで世界を支えて来られその恩恵は、
神の民との自意識を持つ者からは『諸国民(世の人)』と呼ばれる人たちにも及んでいます。(使徒14:16,17)
エホバを知りながら離れた人は、彼らの持つ恩恵がどこか別のところから来てると勘違いして、神の組織にいて苦しかったから逃げてそこに行けば安心だと思っているようですが、
寛大で心の広いエホバの呼びかけは、諸国民にも行き渡り、彼らが理解したいと思う時にエホバの働きを知るための恩恵なので、
今外の世界へ出てそれに預かって安心しているとしてもそれは“エホバから盗んでいる”だけに過ぎません。
[ヘブライ4:13 そして,[神]のみ前に明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません。 10:26 というのは,真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,27 むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがあるからです]
余談ですが、最近破壊されたジョージアガイドストーンには、高次存在達の目標は地球の人口を5億人まで減らすことだと記録されていました。
最高主権者のエホバは彼らに応えなかった時間が長かったので、力の強い高次存在たちは、地球を汚染させずに、自分たちで人間を管理して収めるにはそれくらいに減らす必要性を感じていたからだと思うと、
それが壊された今でも人として身を引き締める必要があると感じてしまいます。
そしてそれにまつわるここには書けない背景を考える時に、畏怖の念を感じざるをえません。
地球がエホバの栄光を受ける日は必ず来るので、
それまでわたしたち人間は(立場や知っている事の内容と深さに応じて)自分がどちらの側に立っているのかを日々の考えと生き方で表してる事になりますし、
毎日目の前に現れる情報や環境は、
様々な方法で精錬されるための、そして現在進行形で試すためのツールだと言えると思います。
コロナ禍はそのためのフェーズがより進んだ段階と言えます。
自分の置かれている環境をどう捉えてどう対処するのか、
神の組織の中にいても外にいても、
誰の何の指示に、何のために従うのか、
各自が心で考えて行動しなければなりませんし、
誰かともしも同じような環境下にあったとしても、それまでの経験や持ってる情報が個々に違うために行うべきことや辿り着くこたえは違うと言えるでしょう。
誰かと同じことをしていれば良い、というわけにはいきません。
自分のことは各自で判断して決めなければなりません。
親のせい組織のせい、そのように語る動機も純粋なものかそうでないのかもすべて調べられています。
組織の中にいて、敬虔な専心の言葉を皆の前で語っているとしてもその本心にあるものは既に知られています。
エホバはこれまでずっと、エホバの名のもとに集う者たちにすべてのものの与え主として、彼らがどれだけ理解せず不満を述べても様々な“良いもの”を用意して来られました。イスラエル人はエホバからの導きと畏怖を起こさせる奇跡を目の当たりにしながら、その保護が無ければ生き抜く事は不可能だったのに、『〇〇にはウンザリした』とエホバが彼らのために備えられたものに対して不満や批判を述べました。それでもずっと辛抱され寛大に与え続けて来られました。
今、わたしたちの生きている時代もその時と同じことが起きていますが、“支配層”にいるものたちは一般市民が、神の行う下支えの一部を認識出来ないように操作しているので、その点については彼ら自身が返報を身に受けますが、わたしたちも個人としての生き方には十分に考慮を払う必要があります。
[ペテロ二3:9エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。10 しかし,エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう]
なので、世界がどれだけ平和に見えても、又は世界中が戦争をしていても、(そう見えるように何者かが“操作”していても)
エジプトの王ファラオの心を頑なにしてイスラエルを解放させたように、異国の王キュロスを用いてご自身の民を集めて高められた崇拝を回復させたように、誰かが時と法をどれだけ変えようとしても、ご自身の予定されてる時に約束されていることを必ず行われます。
自分の罪が何故許されたのかを考えて感謝の気持ちに満たされながらも、
すぐに忘れてしまう気の短いあきの介は、長引く平常とは違う社会などを見て、つい『まだですか?』と思ってしまうのですが、、、
聖書を見てみると、人を選り分けること以外にもまだ起きなければならないことがいくつかあるように思えます。。。