第九章 東方への道
ローマ大啓蒙時代が始まってから十年。
知識国家となったローマ帝国は、かつてない繁栄を迎えていた。
しかしマルクスは帝国図書館の地図を見つめながら考えていた。
「まだ世界の半分しか知らない。」
地図の東方には広大な空白が残されていた。
その先には絹を生み出す大国がある。
ローマ人が「セレスの国」と呼ぶ伝説の帝国。
後漢である。
ローマでは絹は黄金と同じ価値を持っていた。
貴族たちは東方から運ばれる絹を競って買い求める。
しかし多くの商人が仲介するため価格は異常に高かった。
マルクスは元老院で提案した。
「我々自身が東方との交易路を確立します。」
議員たちは驚いた。
「砂漠を越えるのか?」
「山脈を越えるのか?」
「そんな遠方へ到達できるのか?」
マルクスは微笑んだ。
「だからこそ価値があるのです。」
皇帝の承認を得たローマは大規模な東方調査隊を編成した。
学者。
技術者。
医師。
通訳。
護衛兵。
商人。
総勢五百人を超える大遠征隊だった。
隊商はアンティオキアを出発し、メソポタミアを越える。
さらにペルシア商人の案内で中央アジアへ進んだ。
砂漠。
草原。
雪山。
数千キロに及ぶ旅だった。
途中で多くの都市国家と交易協定を結ぶ。
ローマのガラス製品。
鉄器。
医療技術。
農業技術。
これらは東方諸国で高く評価された。
逆にローマへは絹、紙、香辛料、茶葉がもたらされる。
そして数年後。
ついに使節団は後漢の国境へ到達した。
巨大な城壁。
整然とした都市。
高度な官僚制度。
使節たちは驚いた。
そこにはローマに匹敵する文明が存在していた。
後漢の官僚もまた驚いていた。
「大秦国(ローマ)から本当に使者が来たのか。」
双方は贈り物を交換した。
ローマからは精密な測量器具とガラス工芸品。
後漢からは絹織物と製紙技術の知識。
東西文明の直接交流が始まった瞬間だった。
その報告を受けたマルクスは深くうなずいた。
「世界は思ったよりも小さい。」
彼はさらに大きな構想を描いていた。
帝国各地に交易拠点を設置し、知識と商品が行き交う国際ネットワークを築く。
単なる交易ではない。
文明同士の交流である。
数十年後。
ローマには東方学研究所が設立された。
中国の歴史書が翻訳される。
ローマの建築技術も東方へ伝わる。
医療や天文学の知識が交換される。
人類史上最大規模の知識交流が始まった。
後に歴史家たちはこの時代を、
「第一次世界交流時代」
と呼ぶことになる。
そしてマルクスは新たな地図を広げた。
そこには未知の海が描かれていた。
大西洋。
インド洋。
遥か南方の海。
「陸路だけではない。」
「次は海だ。」
ローマ帝国はついに大航海時代への第一歩を踏み出そうとしていた。
第十章 大海への挑戦
東方交易が成功を収めた頃、マルクスは帝国造船研究所を訪れていた。
巨大な船台の上では、新型帆船の建造が進んでいる。
従来のローマ船は地中海での航行には優れていたが、外洋航海には向いていなかった。
高波に弱く、長距離航海のための積載能力も不足していた。
「もっと遠くへ行くためには、新しい船が必要だ。」
マルクスは造船技師たちと共に改良を重ねた。
船体を大型化する。
複数の帆を備える。
船底の構造を強化する。
さらに天文観測による航海術を研究し、星の位置から現在地を推測する方法を体系化した。
帝国技術学院では航海士養成課程も新設された。
やがて完成した新型船は『アウロラ級』と名付けられた。
全長五十メートルを超える巨船である。
初の遠洋航海計画はアフリカ東岸への調査だった。
艦隊はエジプトのアレクサンドリア港を出航した。
紅海を南下し、アフリカ沿岸を探索する。
途中で多くの港町と交易協定を締結した。
象牙。
黄金。
香料。
希少な木材。
新たな交易品がローマへ流れ始める。
続いてインド航路の開拓が行われた。
季節風の研究成果を活用し、インド洋を横断する。
数か月後、艦隊はインド西海岸へ到達した。
そこには巨大な市場と豊かな文明が存在していた。
ローマ商人たちは驚嘆した。
インドの綿織物。
宝石。
香辛料。
鉄製品。
その価値は計り知れなかった。
帰還した艦隊は莫大な利益をもたらした。
元老院は歓喜した。
皇帝も海洋開発予算を大幅に増額する。
その後十年間で、帝国各地に海軍基地と商港が整備された。
地中海は完全にローマの内海となる。
さらにインド洋へ定期航路が開設された。
海路による交易は陸路よりも大量輸送が可能だった。
帝国経済は急速に拡大していく。
しかしマルクスの興味は利益だけではなかった。
彼は航海士たちから集まる報告書を読み続けていた。
未知の海流。
見知らぬ島々。
遠方の民族。
世界はまだ広かった。
ある夜、マルクスは帝国図書館の天文台で星空を見上げた。
隣には若い研究者たちがいる。
「先生。」
「大西洋の向こうには何があるのでしょうか。」
マルクスは静かに答えた。
「誰も知らない。」
「だからこそ確かめる価値がある。」
若者たちの目が輝いた。
知識国家となったローマは、今や未知の世界そのものを研究対象としていた。
その精神は帝国全体へ広がっていく。
翌年。
マルクスは皇帝へ新たな計画書を提出した。
題名はただ一つ。
『世界探査計画』
ローマはもはや地中海帝国ではない。
世界帝国への道を歩み始めていたのである。