1966/67シーズンにスタートしたFIS(国際スキー連盟)ワールドカップ。その2年後に日本が挑戦を開始、4年後の1973年、日本ではじめて開催された苗場大会で柏木正義が日本選手としてはじめて10位に入賞(当時は10位までにポイントが与えられた)、ここから世界の頂点を目指す本格的な挑戦がスタートした。そして1976年、アルペン競技のサンクチュアリ、オーストリアのキッツビューエルが日本にとって歴史的な記録が誕生した。市村政美の登場である。

 1968/69シーズンから1972年の札幌オリンピックのための強化事業の一環としてワールドカップに選手を送り込んだ。初チャレンジは何年たっても上位入賞はやましてや表彰台など無理じゃないか、と思わせるほど世界との大きな“差”を見せつけられる内容だった。挑戦したのは見谷昌禧に率いられた柏木正義、佐々木富雄の2である。日本選手向きといわれていたスラロームさえラップタイムに10秒以上離されることもあった。その初挑戦の結果を受けて上記の「何年たっても無理」という厳しい声がアルペン関係者の間から聞かれた。1973年苗場大会での柏木10位の快挙は、優勝したフランスのジャン・ノエル・オージェに6秒76差と初挑戦から4年で約4秒縮めた。この初入賞の快挙からさらに4年後、世界への道を大きく前進させた選手がいる。それが群馬県水上町出身の市村政美である。小柄ながらシャープなスキー操作は日本の選手の中でも飛び抜けていた。この市村も柏木と同じように大きな差があった初チャレンジの際、「それほど外国選手と差があるとは思っていない」と言っている。このあたりのポジティブな思考が並みの選手とは違う。

 1972年札幌オリンピックに柏木、古川年正、千葉晴久らと出場した市村は日本の男子選手でトップの成績を残した。回転17位、大回転15位、順位がすべてのオリンピック、タイム差はともかく当時としては精いっぱいの成績だった。1976年、1月24日、市村はアルペンレーサーにとってサンクチャアリともいうべきオーストリアのキッツビューエルに出場した。そこで大変な快挙が達成された。市村のゼッケンは57番、今のカリンカリンに凍ったコースと違って第2シードが終わるころには掘れはじめ、50番以降ともなるとモーグルのようにピョンピョン飛び跳ねるくらい荒れることもある。だから57番といっても今とは事情が違う。目の肥えた地元の大観衆は誰も日本から来た市村が上位入賞するなんて誰も思っていない。しかし、市村は自分のパフォーマンスを発揮するための条件があった。それはバーンが硬くて57番でもコースが大きく荒れないことだった。いつからか詳しい時期は不明だが、このころから各会場で水を撒いて硬くしており、キッツビューエルでも水が撒かれた。これを見た市村は「やれる」と思った。水を撒くといっても表面数センチが凍るだけで、やはり遅いスタートの選手にとっては手放しで有利とはいえない。だが、市村は「有利」だと信じている。

 このシーズン、世界はスウェーデンの貴公子、インゲマル・ステンマルクが圧倒的な強さで前年に続きぶっちぎりで2連覇を果たしたシーズンだった。このレースにはイチムラのほか千葉、富井澄博、片桐幹雄が出場、いずれも2月に開催されるインスブルックオリンピックで少しでもスタート順を挙げようと必死だった。

 1本目、当時絶好調だったイタリアのピエロ・グロスがラップタイムをマークしたが、市村は57番からグロスに1秒52差でつけた。1本のタイムでもこれまでの日本選手が誰も記録したことがない“異次元”のタイムをマークして上位につけた。4万人という大観衆は日本から来た選手の快挙を喜んでいる。2本目、これまでスタートしたことがない15番というスタート順を得て、「これで荒れていないコースが滑ることができる」と手ごたえを感じていた。自信をもって勢いよくスタートした市村は、荒れていないコースを軽快に飛ばす。中間計時は1本目ラップのグロスは26秒98、逆転優勝を狙うステンマルクは26秒97。世界を代表するスラローマーを相手に、なんと市村が中間ラップをマークしたのである。残念ながら市村がマークしたラップタイムの記録を見つけることはできなかったが、中間ラップだったことは間違いない。中間ラップのアナウンスが告げられると、会場は大騒ぎとなった。驚きの後に大観衆から「ホップ、ホップ、イチムラ」の大合唱がまるで地鳴りするようだったと言う。ギャラリーは地元オーストリアの選手を応援しているかのように、その市村コールはフィニッシュまで続いた。ダウンヒル王国オーストリアは、技術系が弱く、グロス、グスタボ・トエニのイタリア勢、そしてステンマルクの前に惨敗していた時期だけに市村の活躍でうっ憤を晴らしているかのようだ。2本目の市村は逆転優勝したステンマルクには遅れてものの1本目ラップのグロスには0秒30上回った。トータルタイム1分50秒53、優勝したステンマルクとはタイム差は2秒79差で7位という順位とラップとのタイム差はこれまでの日本選手の記録を塗り替えた。2本目の中間地点までは「世界一」だった。

 日本の選手でも「頑張ればやれる」という“空気”にさせたのは間違いなく市村だった。

(敬称略)

1976年回転第4戦成績

 1/STENMARK Ingemar(SWE)54.82/52.92  1:48.10

 2/THOENI Gustavo(ITA)1:48.10

 3/GROS Piero(ITA)1:48.60

 4/BIELER Franco(ITA)1:49.21

 5/ADOGATE Cary(USA)1:50.18

 6/MAHRE Phil(USA)1:50.28

 7/ICHIMURA Masami(JPN)1:50.53

※ヴォルフガング・ジュンギンガー(BRD)と同タイム7位