時代はプロスキーレースの草創期、1973年。スタート当時、見谷昌禧、園部勝、野戸恒男など日本を代表して世界と戦っていた“猛者”がズラッと顔を揃えていた時代である。そんな顔ぶれの中に、国内のレースでもほとんど実績がない男がトライしてきた。北海道は名寄出身の北川順一、当時20歳の若者である。

無名の若者、北川に最強のレーサー野戸が驚いた

「あんた凄いな」

北川順一に声をかけてきたのはオリンピック2度出場した日本を代表する名手、野戸恒男である。1976年、石打丸山スキー場で行われたシーズン開幕のゲームのことだった。野戸は自分が予選を通過することができなかったのに名前も聞いたこともない北川が予選を通過したことに驚き、そして敬意を表した言葉として冒頭の発言になった。一方、野戸を憧れの眼差しで見ていた北川にすれば、雲の上の存在から信じられない言葉をかけられて有頂天になった。しかも自分は通過して野戸は通過できなかった。

このシーンは予選のことで、予選はタイムレースで行われる。デュアルレースは赤と青2つのコースに選手が分かれ、各組から1回目上位8選手が勝ち上がっていく。そこで北川はなんと初出場で予選を見事通過したのに対し、野戸はあろうことか北川と同じコースを滑って予選落ちしてしまった。だから、野戸にしてみれば対決して敗れたように感じたのかも知れないが、実際は対決して敗れたわけではない。しかし、後にも先にも日本で最強のレーサーといわれた野戸恒男に、「凄い」といわれたのは北川しかいない。

「相手は世界の野戸さんですよ。本人はもちろんですが、私もびっくりですよ。どこの馬の骨かわからないヤツに声をかけてくれた、それだけでもう有頂天ですよ。それで、俺が通過できて野戸さんが通過できなかった。声をかけられて思わず、野戸さん何やってるんですか、って言ってしまったんです」

 この当時の北川は、怖い者知らずで、相手が誰だろうが思ったことを言葉にしてしまう。

若い選手でスーパースター野戸にまともに口を利ける選手はいなかった。それが周りもびっくり「何やってるんですか」の“破天荒”発言だ。技術では勝てない相手に北川は、スタートゲート内で対戦相手にプレッシャーをかける。それは戦法として「ビビッてんじゃねぇか」とかます。気の弱い選手はこれでスタートが出遅れてしまう。勝てばOKのプロレースの世界では、これも北川流の立派な“テクニック”である。気合と根性を身上とする彼にすれば、「俺の気合で野戸恒男を破った」くらいに思っていたかも知れない。

 プロレーサーとしてビッグリザルトはない。しかし、北川にはプロレーサーとして2つ自慢できる成績がある。それは、1974年、この年1戦だけ開催された「プロスキー選手権大会」で3位に入った。唯一の表彰台であり、賞金10万円を手にすることができた。当時としては大きな金額である。この10万円が「スキーで金が稼げる、こんないい商売はない。これからもガンガン稼げるだろう」とすっかりその気になってプロレースにどっぷりつかることになる。ちなみにこのレースで優勝したのは苗場スキー場で木下清美レーシングスクールを主宰する法政大学スキー部出身の木下清美である。

もう1つは、翌1975年、やはり1戦だけ開催された「プロスキー選手権大会」でのベスト16進出である。苗場スキー場で行われたこのレースにはアマチュアから鈴木謙二、中川照勝などの有力選手が加わり、北川本人曰く「一気にレベルが高くなった」そのレースで予選をクリアして32の決勝トーナメントに進み、1回戦は勝ち上がってベスト16に進出することができた。本人にすればアマチュア時代実績がないのにベスト16に進出できたことは、唯一表彰台に立って10万円の賞金を手にした時と同じくらいビッグリザルトだったんだのだろう。

 プロレーサーとしてデビューして5シーズン目となる1977年には、おそらくはじめてだと思うが、選手兼サービスマンという立場で出場していた。ブリザードチームは当時、木下清美、水上孝ら数名いた。使用選手数台のスキーのチューンナップをしてから自分のスキーの手入れをする。それを1シーズン続けて選手として予選を通過することはならなかったが、サービスマンとして選手を支えた。その経験からサービスマンという役割に生き甲斐を感じていた。

その北川、選手仲間には絶大な人気を誇り、相談を持ち掛けられることもあった。顔じゅうヒゲだらけで一見すると強面だが、北川の愛称である「ジュンペイさん」と誰からも慕われる不思議な男でもあった。北川の回りは、いつも笑いが絶えず、選手たちが取り囲む。いつしかプロレースの会場には無くてはならない存在になっていた。

 現在、チューンナップショップのほか石打二十日石でスキースクール、スキー関連ショップを経営するなどビジネスで成功している

北川は選手時代から夏の間、ロシニョールのチューンナップ部門であるサービス工場にいた。だから、ことチューンナップには自信があり、サービスマンとしてもブリザードの選手から信頼も厚かった。ブリザードを扱っていたニチレイスポーツでもチューンナップ部門で修業を積み、まだスキーメーカー(商社)にしかなかったチューンナップショップを自ら始めようと一念発起、「エキップ」を立ち上げた。その後、スキークリニック「スキッド」に改名し、スキーのチューンナップを主に、かつてスキー学校でお世話になっていた石打丸山スキー場の一角にある二十日石スキー場でスクール、ショップなどビジネスの幅を広げている。

 アマチュア時代、北海道でも全国でもほとんど実績のない男が、プロレースの世界に飛び込み、気合と根性で北川ワールドを展開して存在感をたっぷり見せつけてきた。プロレーサーとしての成績以上に、当時出場していた選手たちはみんな北川のことを覚えている。豪快な生き方とは裏腹に、親分肌の北川には誰にも負けないホスピタリティがある。仲間や後輩が困っていると相談に乗り、面倒を見る。誰からも愛される男なのである。

 プロレーサー北川は最後にこう言った。「あこがれの野戸さんと一緒にレースできるなんて考えてもみなかった。プロレースだから実現できたし、プロレースの想い出は野戸さんがすべてだった。

(文中敬称略)