インゲマル・ステンマルク。ノルディック王国、スウェーデンから彗星のごとく現れ、あっという間に「世界最強レーサー」に上り詰めた男、ステンマルクが、16年の選手生活最後の舞台に選んだのが198939日、志賀高原だった。レーサーのみならず、多くのファンがこの男の引退を惜しんだ。

 

 スキーコンプでは19895月号で引退の模様を伝えた。

 最後のレースとなったスラロームの最終戦は志賀高原ジャイアントスキー場で行われた。会場には約3万人のファンがコースを埋め尽くし、もう2度と見ることができないステンマルクの華麗な滑りを頭の中に焼き付けておこうと、かたずを飲んでスタートを見守っている。

 スタートから7旗門目まで緩斜面が続き、短い中斜面があって急斜面へ入るコースは、かなりトリッキーなセットも相まって難度が高い。ゼッケン17番、ワールドカップ16年目のステンマルクのラストランがスタートした。「ステンマルク」の大歓声に送り出されるようにスタートしたステンマルクは、リズミカルな動きに入ろうとした中斜面の入り口、第6旗門目で大きくバランスを崩してあっけなく次の旗門をまたいでしまった。

 スタートしてわずか「5秒」のあまりにも短いラストランにコースサイドを埋め尽くしたギャラリーから大きな溜息があがった。

 

 1956年、第7回冬季オリンピックで猪谷千春が銀メダルを獲得した約1か月後の318日、ステンマルクは父エリック、母グンボルグの間に生まれた。彼が生まれ育ったのは、スウェーデンのタルナビーという村からさらに35キロ離れたジョエスジョという僻地だった。ノルウェーの国境までわずか4キロというこの僻地は、彼の家以外民家はなく、ステンマルクは子供のころから夏は森と川、冬はスキーを一人でやっていた。

 ワールドカップデビュー当時、人前に出るのが苦手であまり喋らないため“変人”扱いされたこともある。それは彼の生まれ育った生活環境によるものだろう。

 デビューしてから一環して「頼れるのは他人のペースに合わせたり、人に気を遣っていると勝てない」と言っていたという。子供の時から常に“自分”で歩き、築き上げてきた「王者の哲学」かもしれない。

 

 1973年、ワールドカップ。グスタボ・トエニ、ピエロ・グロス、クリスチャン・ノイロイター、ハンス・ヒンターゼア、ジャン・ノエル・オージェらが全盛を誇っていた時に彼はデビューした。注目を集めることになったのは、1974年、ザールバッハの大回転第2戦だった。このレースでステンマルクは、なんとゼッケン70番代から9位に飛び込んで、周囲を驚かせた。

 その翌年、回転の第1戦で初勝利を挙げると、大回転は2回目の日本大会となった苗場スキー場で優勝、「不滅の86勝」のスタートを切った。1979年には大回転1010勝、そしてシーズン最多となる13勝(1989年まで敗られなかった)を挙げるなどワールドカップの記録を次々と塗り替えてきた。

 その間、オリンピック、世界選手権大会のメダル獲得と、およそ「世界」の名の付くものは手に入れた。

 もう2度と出てくることはないだろう、天才ステンマルク。ありがとうステンマルク、そして長いこと楽しませてくれてありがとう。

 写真はラストラン後、ゴールエリアでアルベルト・トンバとマルクス・バスマイヤーに肩車されてテレ笑いのステンマルク