もう一つ、オリンピックの話題から。
女子体操のドイツ代表の選手たちが、
「体操の性的な問題について女子アスリートが不安になることなく、美しさを示すため」
と表明し、従来のレオタードではなく、
全身を覆うボディスーツのユニフォームを着用して演技を行った。
素敵なことだし、極自然なことだと、僕は思う。
水着やスキージャンプのウェアのように、
モノによって結果に影響が出るユニフォームにはレギュレーションが必要だけれど、
体操競技で「着衣は生足を露出するもの」とする理由は見当たらない。
もちろん、ブカブカで足の位置や形が分からないものはダメだけれど。
てか、そんなのは演技し難くなるだけだけれど。
ただし、ボディスーツが正解でレオタードが間違いかと問われれば、
僕は、否と思う。
もちろん、女性アスリートを性的な目的のみで撮影し、
その画像を商用ポルノのように扱うことは、卑劣な行為だ。
その際、レオタードが標的になりやすいというのも解る。
けれど僕は、この話題に潜む、
「レオタードよりもボディスーツを着用した方が意識が高い」的な、
セクシャルハラスメントへの過剰反応に否、と思う。
この問題は、経験によって大きく差違のあるものであるため、
不快だと思われる人は読まずに措かれたい。
僕は色艶について探求し、美しいものと思っている者のため。
性的な視点の全てが、卑劣で悪意を持ったものだとすれば、
僕は当の昔に300年の禁固刑に処されている。
同じように、奇特にも僕を好いてくれた女性も同罪と言える。…少数だが。
女性らしいなぁ、男性らしいなぁ、美しいなぁ、素敵だなぁって想うことも出来ない。
そんな世界が自由を求めた先の世界ではないはずだ、と僕は思う。
「セクシーだね」と言うのが誉め言葉にならない世界は、寂し過ぎる。
もちろん関係性や個性を無視して使うものではないけれど。
中には、
「そうじゃないだろ。スポーツとセクシーさは切り離して考えるべきってことだろ」
という意見もあるでしょう。
では、
新体操での「女性らしい、しなやかな演技ですね」とか、
フィギュアスケートでの「妖艶な魅力に息を飲みます」とか、
アーティスティックスイミングでの「長い足が美しいですね」とか、
女性がゆえの美しさ、魅力を芸術点として評価する競技は、
男性社会が強要した、卑しい競技なのだろうか。
違う。絶対に違う。
それこそ、そこで懸命に取り組んでいる選手たちを卑しめる卑劣な考えだ。
人がより美しく在りたいと願う時、
女性らしさ、男性らしさは、かけがえのない人間の大きな魅力の一つなのだから、
と僕は思う。
ゆえに、
嫌だなと思うのならばボディスーツを着用すれば良い。
反対に、妖艶さを演技の魅力とするならばレオタードを着用すれば良い。
どちらが長けているとか崇高であるとかではない。
本人が望み、競技に支障がないユニフォームであれば良い。
選択の自由を誤読して、個性表現の不自由になってはならない。
と思う。
これも前回の写真と同じ日に撮ったもの。
彦根城の膝元で売ってたお土産の「ひこドラ」。