毎年のように、GWにここに載せていたお祭りは、このウィルス騒動で今年は中止。

仙台の七夕祭も、京都の祇園祭の山鉾巡行も、青森のねぶた祭も、中止。

祇園祭なんて、疫病を封じる意味もある祭りなのに。

ついでに大相撲夏場所も中止になったけれど、

力士が踏む四股は、災いや邪気を踏み鎮める意味もある。

中止の決断は、科学的には正解なんだろうけれど、

非科学的な所は、人の心の拠り所でもあったりするわけで。

やっぱり僕は馬鹿なので、正し過ぎる世界は苦手だ。

と思う。

 

 

テレビを見ていて、とあるお寺の庭の話が面白かった。

そのお寺の庭の入り口の左右には、枯山水の砂紋が二つ設えてある。

左手の砂紋は白い砂利の「陽の庭」。右手の砂紋は黒い砂の「陰の庭」。

単純に見れば、陽と陰の二元論で構成されているように見える。

けれど、寺の僧侶はそうではないと説く。

砂紋を照らす太陽は、陽の庭にも影を、陰の庭にも光を描く。

生きる世界は決して単純な二元論で語れるものではない、と。

 

善悪も、正否も、愛憎も、単純に割り切れるものではない。

そう言われれば、誰もが解っていたりする。感覚で。

けれど、何かに囚われてしまうと、途端に見えなくなってしまう。

これが善だ。こちらが正だ。私こそが愛だ。と。

 

 

そんなことを考えていたら、中学生の頃を思い出した。

ある時、僕は同級生の女の子に持論を大いに展開していた。

神など居ない。偽りなき人間など居ない。真実の愛など存在しない。と。

うむ。まさしく中二病全盛期である。

したらば、その女の子は僕の話を静かに聞き終えた後、

ちょっと寂しげな困った顔で、次のように言った。

「それだけ否定をするということは、

 神は居る、偽りなき人間は居る、真実の愛は在ると、あなたは確信しているのね」と。

逆転サヨナラホームランを食らった僕は、

その後どうやって取り繕ったのか覚えていない。

 

 

支離滅裂な回顧録のようになってしまったけれど、

過剰な合理主義がまかり通ってしまうと、

豊かさとか面白さとかが無駄だと切り捨てられてしまうんじゃないかと懸念する。

マスクやアルコール消毒も必要だけれど、

白拍子の舞や鈴の音も厄災を祓うには必要だと、

僕は思ったりする。

 

滅裂ついでに、僕が最上級に敬愛しているサルバドール・ダリの言葉を。

「狂人と私の違いが一つある。

 狂人は自分が正気であると思っているが、私はおかしいことを解っている」