今日の朝は冷たかった。
外に置いてあるクルマが久々に凍てついていた。
と言っても、最低気温は1℃くらいだろうか。
水溜りが凍ったり、霜柱が立ったりまではしていなかったし。
あいさつ文で「厳冬の候」とか「寒さ厳しい折」が使えないじゃないか。
昨日の記事にも、ちょっぴり重なるのだけれど。
色んな人が、色んな時代に、色々と考えていただろうし、
多くの物語や論文なんかにもきっとなっていて、
僕が想うことなんて二億番煎じにも及ばないのだろうけれど、
「ああ、そうそう。そうなのよ」って、
共感というか共鳴というか、そんなのが感じられると、
なぜだか嬉しくなっちゃったりするから、人間って不思議。
一人静かな部屋にいるのが耐えられなくて、
僕は部屋に帰ると、見たい番組がなくてもTVのスイッチを入れるのだけれど、
そんなTVの画面に、へんてこな小説家が映った。
その小説家はイスラエル人で、
どうやら番組は彼のドキュメントというか人物紹介というか、
本人がストーリーテラーとなって生い立ちや創作活動を語るものだった。
彼の書く物語は、夢と現が混然となった非常にへんてこな物語らしく、
「どこからそんな発想が生まれるのか」が一般的な人々の関心であり、
「きっと我々とは異なる波乱万丈な人生を過ごした奇天烈な人間に違いあるまい」という、
隠れた興味を基に、番組は作られていた。
しかしながら、彼の容姿や口調に奇天烈さは微塵もなく、まさに一般的な普通の中年男。
人生の転機は幾つかあれど、突拍子もない経験をしている訳でもない。
しかも愛想も良く、話し上手で、淡々と整然と思っていることを語る。
ただし、彼は自分の身の回りで起きた出来事を、よく見て、よく覚えている。
そして、自分なりにそれを解釈しようと、考える。
その結果、たくさんのものが絡まり合って、夢か現か分からない表現になる。
誰かに自分の考えたことが伝わらないかと、言葉を操って。
そんな彼が語った一つのエピソード。
彼はカフェでお茶を飲みながら窓の外を眺めていると、通りを一人の男が歩いてきた。
男は右脇に新聞を挟み、右手に飲み物のカップを持っている。
男は信号待ちで立ち止まると、飲み物を飲もうとする。
すると肘が上がり、脇が開いて、新聞が落ちる。
男は、しまったとばかりに新聞を拾い、再び脇に挟む。
そしてまた、飲み物を飲もうとする。
するとまた、新聞が落ちる。
男はまた新聞を拾い…。
同じことを繰り返し、目的を達成できない男。
彼は家に帰って、妻に言った。
「今日、僕は世界の悲しみを見てしまった」と。
訳が分からない妻は彼に何を見たのかを問い、彼が説明すると妻は言った。
「そんなのただの間抜けな男ってだけじゃない。
どこかに新聞を置いて飲めばいいだけでしょ?
ただの間抜けよ」と。
彼も妻も、どちらも間違っていない。
現実、想像、具象、抽象、実体、概念。
そこに見える意味は、一つじゃない。
なお、彼はある意味エンターテイナーで、読者や話し相手を楽しませることを楽しむ。
ゆえに、彼の話はどこまでが本当で、どこまでが創作か分からない。
「話し上手」は、「愉快なホラ吹き男」でもある。
物事へのアプローチの仕方や、突拍子もない表現方法から、
きっと彼は「変な人」のカテゴリーに入る。
けれど、本人はそれを大真面目に、
何かの真実に辿り着かないかと、問い続けている。
何気なく付けたTVに向かって、
「そうそう。そうなのよ」と見入ってしまった僕も、
きっとカテゴリーは同じなんだろう、と思う。