宗教に関わる話は、
いつの時代もナイーブな話題だ。
信仰への熱意や、歴史的な争いを思えば、安易に語るものではないのだろう。

だから、先にお許し頂きたい。
ここに記すことは、あくまでも私個人の思いであり、
決して誰かを傷つけたり、脅かしたりする意図はまったく無いことを。
そして、人間を、人を考える上で避けては通れない大切なことであると、
私が思っていることを。


僕は、無神論者に近い。
近いって曖昧にしたのは、分からないから。
「人智を超えたもの」を神と呼ぶなら、神は存在すると思う。
ただし、「全知全能の “すべての” 創造主」を神と呼ぶなら、神は存在しないと思う。

神がいるのか、いないのか。
僕には分からないんだ。
なぜなら、僕は人だから。
さっき言ったろ、人智を超えたものってさ。
僕が考えつく範囲は、どこまで行っても人智なのだから、分かるはずがない。

それに・・・
僕が描いた絵は、僕の絵だよ(笑)
せっかくがんばって作ったものが、
「誰かが作ったものだね」って言われたら、とても悲しくなる。
神様でも同じ。


人が脈々と命を繋ぎ、世界を観察し続け、
様々なことを思い、親から子へ、師から弟子へ、歴々と積み上げてきた叡智。
「より素晴らしい世界のために」と、どれだけ努力してきたことか。
その努力は誰のものでもない、人のものだ。

同時に、人は過ちも犯してきた。
扱いきれないものを、たくさん生み出してきた。
恐るべき思想や、制御できないテクノロジーを。
その創造は誰のものでもない、人のものだ。

「誰か(何か)のおかげで、生かされている」
自然や社会への感謝。これは忘れてはいけない。
それを集約して神とし、祈りを捧げる人には、僕は敬意を払う。
ただし、命や己の責をも預けてしまう人には、疑問を持つ。

人だけではない。
木々も、鳥も、植物や動物だって、懸命に命を繋いできた。
宇宙に思いを馳せれば、鉱物すらも変化を続けてきたんだ。

僕は、分からない始まりや存在意義なんかを「神の御業」と一言で片付けるより、
互いに変化を続ける世界を見つめながら、問い続けていたい。
人智を超えたものに、敬意と畏怖を抱きながら。

だから、無神論者で、自然崇拝者で、科学信奉者で、民主主義者で・・・。
けれども、どの宗教の神様も好きだし、敬虔な人たちを尊敬もする。
考えようによっちゃ、多神教信者とも、言えるかもしれない。


キリスト教。
ナザレのイエスを救世主とし、信仰する宗教。
宗派は多々あれ、イエス信仰という意味において、
現在世界で最も多い信仰者を持つ宗教だ。

思想、科学、技術の発展に、ひいては人の発展に、宗教は大きな役割を担ってきた。
中でも、キリスト教は、多大なる影響をもたらしてきた。
芸術を、学んだり、楽しんだりする上で、キリスト教はどうやったって避けられない。


だってさー、生産性に欠けるんだもの、芸術って。
誰かの擁護がないと、発展どころか生きてさえいけない。
権力と資金。
王様や教会、後はパトロン、今では商業主義の経済世界。

芸術って言葉の清澄さとは裏腹に、必須要素なんだ。
理念だけを問えるようになったのは、
社会機能が安定し、生活が豊かになってからのこと。

それに、最先端の知識や技術は、権力者が握ってた。
深い群青を描くための顔料は、
高価なラピス・ラズリを輸入できる権力や資金がなければ手に入らなかった。
本物のライオンを見ることも、世界地図を見ることもね。

コンビニでクレヨン買って、動物園に行って、TVでアフリカを覗きながら、
真っ白な画用紙にライオンを描く3歳児なんて、
L・ダヴィンチが知ったら、ビックリするよ(笑)

中世ヨーロッパで宗教画を依頼されるということは、
時代の最先端の思想や技術を持ち、
信用と栄誉を得るに相応しい人徳と才能を認められたということだ。
今の世の中から見れば、ただの太鼓持ちや権力の犬に見えることもあろうが、
その時代時代で、価値や概念はまったく違うことを忘れてはいけない。


中世ヨーロッパで開花した芸術の一つが、建築だ。
科学的な発展の下、石工の技術は頂点に達したと言っても過言じゃない。
そして、当時の一流のデザイナーであり、一流の建築士であり、
一流の物理学者だった彼らが、持てる技術の粋を用いて造ったのが教会、
大聖堂だ。

「大聖堂には、ぜひ一度は訪れなさい。
 あれは、写真やTVでは分からない芸術だから」

面白くて、大いに影響を受けた、大学の助教授の言葉。
聞いて以来、必ずや訪れなくてはと、胸に秘めていた。


ノートルダム寺院。
パリの中心にそびえる、カトリックの大聖堂。
ゴシック建築の最高峰の大聖堂だ。

「ノートルダム」は、フランス語で「我らが貴婦人」。
すなわち、聖母マリアを称えて造られた。聖母マリアが御本尊ってこと。
1163年着工、変更や改修を加えつつ、1345年ほぼ現在の形に。
182年間か・・・。すごいなぁ。

18世紀後半のフランス革命で、一部が破壊される。
いくら民主主義を掲げても、民衆の怒りは容赦ない。
今では「パリのセーヌ河岸」として、世界遺産にも登録されている大聖堂も、
当時の民衆からすれば、悪の居城。

大昔から、文化遺産消失の原因は、戦争や暴動、略奪、盗難によるものだ。
地震や気候変化などの天災なんて、1%にも満たないだろう。
他の文化を破壊し、己の文化に染める。優れていればいるほど、征服蹂躪する。
人は自らの進歩を、自らの手で、何度も足止めしてきたんだ。

話が逸れた(笑)

ノートルダム寺院を訪れた所感は・・・とにかく、もう圧巻。
助教授の言葉は本当だった(笑)

近づくごとに、想像の巨大さを超えていく。
長崎などで訪れた教会や写真集での想像を遥かに超える。
石に対する概念、重量感の概念があるから余計に。

中に足を踏み入れたら、絶句だった。
超重力と無重力の間。
押さえつけられるような、宙に浮くような、初めての感覚。
空間に脅威を感じるなんて、そうそうない。

石に囲まれている、重量感。
広くて高い、距離感。
石により外界と遮断された、静寂。
ステンドグラスのもたらす、光彩。

この辺りが、助教授の言葉の要素になってると、後から整理して思う。
さらには、何百年も時の記憶や、
それを築き上げた人の尽力、
ここで祈りを捧げ続けてきた人々の思い。
聖地の持つ、威厳。


復唱する。
大聖堂には、ぜひ一度訪れてみた方がいい。



ノートルダム寺院、正面。西側。
Xmas 前だから、ツリーがある。これも巨大。
遠近感も狂うんだよ。手前の観光客と寺院下の人の大きさを比べれば、
広場が運動場くらいはあるんだって分かる。

夜景。
左の建物は並列だから・・・塔の頂点は15階建より高いくらいだなぁ。


入ったすぐ。身廊の西側から。
10階建ビル相当の高さが吹き抜けのアーチ天井・・・。本当にすごい。
結婚式場のチャペルなんてドールハウスだよ(笑)
大きな教会は、基本が十字架の形に造られる。入口がイエスの足元で、祭壇がイエスの頭部。列柱で、身廊と側廊が仕切られて、十字架になってる。


ご本尊。「聖なる女性」。命を生み出す女性への崇拝は、太古からの人の心だよ。


南の薔薇窓。美しい。
ステンドグラスの美しさや技術にばかり注目されるが、薔薇窓は、石の重量を分散させ、どれだけ大きな窓を造れるかという、建築の粋なんだよ。

 
北と西。
西の薔薇窓(入口正面に見える窓)の下には、パイプオルガンが設置される。
祈る人々の後方上部から、空間に反響しながらオルガンの音色が聴こえる仕組み。


クロスの中心、礼拝者席最前列からの祭壇(東側)。


聖母の裏側。世界の人々に慈悲を。
側廊を通り、裏側を回って、1周することができる。


最後の晩餐。木彫りのレリーフ。愛すべきユダは右端に。
周回コース には、イエスの生涯のレリーフが並び、側廊の壁がんには彫刻や壁画、聖人の墓標などがある。

   
側廊の彫刻とステンドグラス。


霊験新たかなオブジェ。・・・CDの視聴機だよ(笑)
売店の前に設置。賛美歌CDをNow on SALE !! 商売も抜かりない。
僕は、お賽銭代わりに記念メダルを購入。観光地によくあるやつね(笑)


セーヌ河岸、南からの外観。
南の薔薇窓の出かたで、十字架の形ってのが分かるでしょ。
その並びに、斜めのつっかえ棒みたいなのが、重量を分散し支える仕組み。物理学。
正面の双塔には鐘があり、V・ユゴーの小説『ノートルダムのせむし男』で、せむし男が幽閉されていた所。登れるらしいが、僕は知らなかったので登らずに終わった(笑)


北側より塔の裏を見上げる。
大屋根を支えつつ、集まる雨水の樋(とい)となり、側廊の柱となる。合理的。
塔から出ているトゲも樋。ガーゴイルや犬など、魔除も込めた彫刻でできてる。
ステンドグラスは外から見ると真っ黒。不思議だ。