思い続ける、というのは、とても難しいこと。


どんなに、どんなに大好きだとしても、

ずっと変わらず、本当に変わらず、思い続けることは難しい。


定義や意義は考えないで欲しい。


「ケンカばかりしてるけれど、とても仲が良い」のは、

思い続けているからなのか、思いが途切れ途切れなのか・・・。


感じ方は、人それぞれ。

だから、感じて欲しい。

自分の胸に手を当てて、瞳を閉じて。

自分の気持ちを。



好奇心は、悪いことじゃない。

僕は、良いことだと思っている。

好奇心なくして、理解も進歩もないと思っている。


ただ、好奇心は、時に災いを招く。

アダムの林檎。パンドラの箱。浦島太郎や鶴の恩返しも。

知りたいと思わなければ、幸せは続いたかもしれない。

原子力も、知らなければ災いは起きなかったのかもしれない。


そこにあるのに、見ちゃいけない。

見えているのに、手を出してはいけない。

手が届くのに、触れちゃいけない。


好奇心を抑えることは、難しい。



現代社会は情報社会と、よく言われる。

情報。

物事の内容や事情についての知らせ。

知らないことを知ることができるモノ。


現在のマスメディアは、留まる所を知らない。

今の日本で暮らす限りは、

誰でも、いつでも、どこでも、何でも、知ることができる。

知るという好奇心を満タンにするには、寿命が短すぎることだろう。


「隣の山田君がラジコンを買ってもらったから、僕も買って」

という時代が懐かしい。

「アメリカのセレブがメキシコでリゾートしてるから、私も連れてって」

・・・。大変な時代だ。


働かなくても、お金持ちの人がいる。

おいしいものを、毎日食べている人がいる。

好きなことをして、自由に暮らす人がいる。

飛び切りの美人と、結婚した人がいる。

飛び切りの美男子大勢に、チヤホヤされ放題の人がいる。

伴侶も子供も秘密の恋人も、手に入れている人がいる。


自分よりも幸せそうに暮らす人が、世界にはたくさんいる。


知らなければ、自分は世界一の幸せ者かもしれない。

比べるものがなければ、落胆も絶望も、なかなか生まれるものではない。


大草原の小さな家で、

大切な伴侶と、大切な子供と、

大切な畑と、大切な家畜と、

日々健康に暮らしていたなら、

持ち合わせている幸せに、

満足と感謝を感じるかもしれない。


知るがゆえ、自分の持ち合わせている幸せが、か弱く見える。



知るな、とは決して言わない。

そもそも、知らないでいることは無理なことだけれど。


先に言ったように、好奇心は理解と進歩に必要不可欠だ。

知識を得ようとすることを放棄して、未来に希望はない。


ならば、だ。


知ってなお、持ち合わせている幸せを認識し、

その上で、より良い暮らしをしたいと願い、努力すること。


そんな思いを忘れずにいられたら、

ただ闇雲に溜息をつかなくても済むのではないか。


「自制心のない者に、自由はない」

ピタゴラスの名言。

縮こまるためだけの戒めではないと、僕は思う。



思い続ける。

なんだか重くて、身が引けてしまう言葉。

素敵だということは分かっていても、どこか腑に落ちない感じ。


その言葉を口にできるほど、自分は完全体ではないと思うから。

素敵なものは、それだけではないと知っているから。

落ち着いてしまうのは、可能性を否定するようで寂しいから。


けれど、もう片方もちゃんと知っているのだ。

身の丈に合わない幸せを求め過ぎれば、どうなるのかを。

好奇心がもたらす災いは、すでに好奇心が教えてくれている。



だから、思い返す、のだ。


どんなに落胆しようとも、初心はどう思っていたのかを、思い返す。

どんなに利欲が高まろうとも、災いの予測を、思い返す。


腹立たしい伴侶も、愛しい人と思って一緒になったはず。

うるさい子供も、生まれた時には世界で最も愛する人であったはず。

手に入れたすべてのものは、自分にとって大切なものであったはず。


その大切な思いを、事あるごとに思い返すこと。

思い続けることは難しくとも、思い返すことは深呼吸をするだけでも、できる。



もちろん、いくら思い返そうとも、上手くいかないことはある。

そう思うがゆえに、苦しみ続けてしまうこともあるだろう。


ただ僕は、

思い続け“なければ”という苦しみや、

浅はかに投げ出してしまう軽薄さより、

思い返す穏やかさの方が、

幸せを感じることが増えるのではないか、と思う。