悲しい時、嬉しい時、人は涙を流す。

掴みどころのない「心」が形になって見ることができる、小さな一滴。


泣き虫は、あまり格好の良いものじゃない。

物事を受け止め、処理する能力が低いことを見せてしまうから。

心の弱さの現れ。

涙はときに、そう取られることもある。


だから、泣きたくないなと思う。

泣きそうだと感じても、泣くのを堪えようとする。

動揺することの情けなさを知るがゆえ、

強くなりたいと願うがゆえ、

涙は見せたくないと、拳を握り締めて、堪えるのだ。


そう思ううちに、人は泣かなくなる。

他人と様々な関係を持ち、

大量の情報を素早く処理することが求められる中では、

一つのことに深く関心を持って、長く試行錯誤することは、

効率を下げ、進歩を遅延し、損害を与える、悪性でしかない。

動揺するような関わりを持ち、いちいち泣いていては、「ついていけない」のだ。


関心の意図的な低下。

「強い人」と言われる人が、往々にして「冷たい人」とも言われるのは、

こういうことじゃないかと思う。


仕事。恋愛。家庭。

うまくやろうとすればするほど無関心に近づくなんて、何ということか。

そんな強さを望んでいたはずじゃないのに。


僕も泣かなくなってた。

本当は泣き虫だったのに、泣かなくなってた。



夕べ、懐かしい友人と夕食を共にした。
前情報として、僕の現在は知っていてくれる友人。

「出ておいでよ」という心遣いが嬉しかった。


近況報告や今の気持ちを聞いてもらうことは、ありがたいことだ。

誰にも話せず、一人で抱えている時ほど、苦しいことはない。

夕べも、優しい気遣いに甘えて、色々と聞いてもらった。


たくさんの友人たちの心遣いのおかげで、

最近は随分と落ち着いて、物事を考えられるようになった。

離婚についても、自分なりの捉え方で、冷静に話せるようになった。

自分の気持ち、子供たちのこと、元妻のこと。


ただ一つ、話すのに勇気が必要になる話がある。

誰に話す時でも、いかに覚悟を決めようとも、どうしても涙が溢れてしまうからだ。

それが「子供たちに離婚を伝えた時」のこと。



親の勝手で、暮らしのすべてを変えなければならない子供たち。

天災などではなく、完全な人災。

愛されていると信じきっていた人による、人災。

どんなに理不尽だと思っても、受け入れるしかない現実。


加害者である上に、死の宣告者となる父の姿を、彼らはどう感じるのだろうか。

幼き子供たちを目前に、精一杯の誠意を込めて、僕は話した。


弟と妹は、神妙な面持ちで座っていた。

よく分からない大事な話に、きょとんとしていた。


兄は、涙を流した。


「…僕は、ここにいたいなぁ」と小さく小さくつぶやき、

「花粉症で目がおかしいのかな」と、涙を拭い取った。

まだまだ幼いのに、涙を堪えようとした。

加害者の僕を、気遣った。


彼の涙を思い出す度、僕は涙を流す。

格好悪いことも、情けないことも、分かっている。

それでも、彼の涙を、彼の心を思うと、

どんなに押さえ込もうとしても、涙が流れてしまうのだ。


今、彼の生まれた日のことを思い出すと、泣きそうになる。

嬉しさと、悲しさと。


彼に、生まれた日のことを話す機会が来たら、

僕は、ちゃんと嬉し涙を流そうと思う。

「目にゴミが入ったようだな」と言い訳しながら。