ゴッホっす。
いや~先週の名古屋は楽しかったね。共演したバンドも皆素晴らしかった(俺的にはHangoverってバンドがお気に入りでした)!共演者の皆さん、そしてそして!何と言っても当日お越し頂いたお客さんの皆さん!本当にありがとう!地元で俺たちを楽しみに待っててくれた人や、遥々遠方からお越し下さった方、とっても盛り上がってくれてステージ上で俺は幸せ~な気分でしたw感謝!!

さて!んじゃ、前々回にブログしたお呼びでない企画「ゴッホ史~半生を振り返る」の中編にまいりたいと思いやす(笑)。
今回は「高校時代~大学時代」を振り返ります。

中学から始まったオイラのホコ天通いは高校3年間も続きます。時代はハードロック&ヘヴィメタ全盛期。ブラックミュージックや70sロックを愛するオイラはバンドでの行き場を見失いました。そこで、中学当時、ホコ天で知り合った連中からHipHopを学び、感化されてバンド活動の傍、DJ活動にもいそしみます。高校進学後もバンド活動と平行してそれは続きました。
高校時代、オイラの友達は「真っ二つ」に分かれてました。「バンド仲間」と「DISCO仲間」。その2方面に顔を出していたオイラは結構忙しかったんでございやすw

高1の時(1986)、バンドと言えば相変わらずヘヴィメタブームでした。ギタリストはみんなARIA proやフェルナンデスなどの「とんがりギター」を持ってました。オイラは「ギターっつったらGIBSONだろ!」なんて一人で「るいふ~人間」してましたw
この頃のオイラはロックと言えばよくPUNKを聴いてました(もちろん洋楽w)。ラモーンズ、ピストルズ、等々。だからバンドやるなら「PUNKやりて~!」なんて常々思ってました。しかし高校2年(1987)頃から、ヘヴィメタ一色だったバンド仲間に次第に変化が起きてきました。「日本のインディーズムーヴメント」の始まりです。当時「インディーズ御三家」と称されるウィラード、有頂天、ラフィンノーズなどの活躍により、そう言ったバンドに憧れる人たちが増えてきました。彼らは「もっぱら邦楽派」でしたが、多くがPUNKに影響され、その他にもRCサクセションやバービーボーイズ、スーパースランプ(後の爆風スランプ)、米米クラブなどが好きな連中が多くいました。そんな彼らとゴッホ少年はなんとなく気が合い、「洋楽じゃないけど、まっいいか~」つって、その頃から少しずつ「邦楽のコピーバンド」をやるようになったんでございやす。

一方、DJ活動はというと、もっぱら「DISCO通い」に変わりました(クラブと言えるものはまだそんなに無かったっす)w 当時のDISCOは楽しかったんでございやす。まあ「ベタ」な所に通ってましたね。マハラジャ麻布、ニューヨークニューヨーク、キングクイーン青山、レキシントンクイーン、新宿ゼノン、等々。この頃、自分はヒップホップが好きだったんだけど、まだ今程は流行ってませんでした。でも、当時のDISCOサウンドは嫌いじゃありませんでした。
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初期ユーロな感じで、ニューウェーブやテクノ、UKポップの影響を受けて、当時のDISCOシーンは非常に「キラキラ」してましたよw DJの勉強をするために年上の兄ちゃんたちに紛れて侵入してましたが、よくつまみ出されもしました(笑)。なんたって「バブル全盛期」!大学生以上の若者たちが「踊れや!飲めや!ナンパしろや!」でやりたい放題でした(笑)。みんなスーツやボディコンに身を包んでてね。高校生の餓鬼んちょのオイラなんか圧倒されてましたよ(バイトで貯めた金はほとんどDISCO&レコード代に消えたっけ)。だから「くっそー!大人になったら絶対にヴェルサーチのスーツ着て華麗なDISCOライフを送ってやる!」なんて息巻いてました(その後、バブル崩壊とともにDISCOブームも泡と消えるなど、つゆ知らず・笑)。
程なくして「空前のジュリアナブーム」が来るんですが、オイラは全然興味が湧きませんでした。

(↑当時メンバーカードがわりだったキーホルダー。ゼノンとニューヨークニューヨークのやつ)

そんな高校生活も終わろうという頃、オイラは「とにかく音楽を本格的にやりたい」と思い始めました。だから「大学進学」なんて全く考えてませんでした。この頃のオイラは「オリジナル音源」を作り始めてました。自宅ではHipHopな音源作り。外ではロックバンドでホコ天活動。

ヒップホップはトラックメイキングに「カセットテープ」と「リズムボックス」を使ってました。専門的な話になりやすが、当時世界的なトラックメイカーはメロトロンやフェアライトCMI、シンクラビア、Emulatorと言った「超高額なシンセ・サンプラー」を使ってました。どんな装置か分かり易く言うと「オーケストラサウンドや効果音を記憶させ、任意のタイミングと音程で発音させる装置」でありやす。これらは当時、時価数百万もしたんでございやす。もちろん、学生のアタシャそんなもの手に入るわけございません。だからカセットテープ(もちろん「ハイポジ」!なんだか分かります?なつかすいー・笑)を使って「高額装置の代用」をしてました。テープを途中で切りましてね、それをつないで「エンドレステープ」を作るんですわ。んで、MTRという録音装置を使いましてね、
(コレです↓これは比較的安かった!)

こんなのを使って4トラックのマルチレコーディングをして、ピッチ(音程)やテンポ(速度)を変えたりして、それぞれの録音素材を好みのフレーズに変化させて再生し、それを別のテープに再録音する。なあーんて、今じゃPC使って数秒で出来る事を丸一日かけて作業しながら作品作りしてました(笑)。それを当時通ってたDISCOの兄ちゃん達に聴かせたり、仲良くしてたレコード店の店長に聴かせたりしてよく批評してもらったもんです(当時の反応は「微妙。。。」だったけど、今聴くと、結構かっこいいぞ!我ながら・笑)。

平行してバンドはホコ天でUKパンクとLAメタルを融合させたよーなのをやってました。んでもって、時代は空前の「イカ天」ブーム(当時TBSの深夜に放送されてたバンド発掘番組。マルコシ、FLYING KIDS、ブランキー、宮尾すすむと日本の社長、タマ、風来坊、中学生日記、サイバーニューニュ、JITTERIN'JINN、人間椅子なんかが出身)。

その影響でホコ天もイカ天化してました(たしかヒューズなんてバンドがよく隣でやってたよーな。。)。まあ盛り上がってましたよ。犬も歩けばバンドに当たるっつーくらいのバンドブームw。Boowyやレベッカの黄金時代っすね。

洋楽じゃジャケ写のGUNS'N ROSESが大フィーバー!ストーンズ初来日!と、毎日とっても楽しいロックライフでしたよ。ガンズはLAのハードロック/ヘヴィメタ系のバンドなんだけど「アメリカに初めてPUNKを持ち込んだ」なんて言われてて、結構カッコ良かったっす(俺も案外好きでした。初来日から2回連続で来日公演見に行っちまったし・笑)。それから、何と言っても「ストーンズ初来日!」これは嬉しかったね~。「もうこのお爺さん達、来日する前に死んじまうじゃねーか?」って心配してたから尚更w。いや~、生のミックやキースはビデオで見るより「変な動き」で最高でした~!彼らのおかげで、世の中が少しずつ「オイラ寄り」になってくれました(笑)。

ちなみに、この初来日の際のツアーからですね、ストーンズの有名なロゴ「ベロマーク(アンディーウォーホール作)」にヒビが入って、赤青になったのは。最初は写真の「真っ赤なやつ」でした。

こんな感じのオリジナル活動を2年くらい続けました。DJでもバンドマンでも、どっちでも良かったんですが「とにかく音楽で成功したい!」って漠然と思い続けた2年間でした。
でも、世の中そんなに甘くは無かったんです。DISCOはジュリアナ系に変色し、オイラの好きなDISCOミュージックは減っていきました。バンドのメンバーも「それぞれの道」を歩み始め、活動が出来なくなりました。
かねてから親には「どこでも良いから、取り合えず大学だけは行ってくれ!」と言われてました(いい親ですw)。興味は無かったんですが、両親たっての頼みだったので「まあ、大学で、新たに音楽仲間でも探すか。。んじゃあ、学校指定教科書の勉強だけで入れる大学なら1校だけ受けてもいいよ。」ってな生意気を言って東海大学に進学する事になりました。高校時代、オイラは「学校の勉強」だけはしてました。でも当時は今では想像もつかない程の「超お受験戦争時代」。予備校なるものが一番儲かってた時代です。「予備校とか馬鹿じゃね?何のため?」と疑問を抱いていたオイラは、「教科書さえ勉強してればよし!」とする東海大学を選びました。いい大学です。

さあ、いよいよ時代は「平成」(1989)!激動の90s突入!大学、そして社会人へと進みますが、今日はこれまで!
次回「後編」に続く!!笑