仙台青葉山公園の五色沼といえば、日本のフィギュアスケート発祥の地。
1890年頃に仙台在住の外国人がここでスケートを始めたとかで、
仙台におけるスケートの歴史は1世紀以上あります。
五色沼などでスケートをする外国人らに興味を持った仙台二高の生徒、河久保子朗・田代三郎・佐藤幸三らは、ドイツ語教師ウィルヘルから直接スケートを習いました。
また河久保は、東京大学進学後、
自らドイツ語で書かれたスケート解説書を取り寄せて翻訳したそうです。
1905年に中央線が諏訪まで開通すると、
多くの仲間とともに諏訪湖まで行って手探り状態でスケートの練習を始めたそうです。
『君なら飛べる!』で読みましたが、
佐藤信夫先生の世代の方は、この河久保先生から当時のお話をうかがったようです。
そこから随分時代は下りますが、
70年代には佐藤信夫先生たち品川プリンスのコーチたちの努力で佐野稔さんや松村充さんが飛躍し、
80年代には名古屋の伊藤みどりさんが大活躍されます。
こうしてスケート人気が再び盛り上がってきた昭和最後の63年(1988年)、
仙台泉にできたダイエーの「オレンジワン泉」に、千葉松戸から副支配人兼コーチとしてやってきたのが長久保裕先生でした。
先生の求心力(指導力)のお陰で、泉には福島の本田武史さん、青森の田村岳斗さん、仙台の荒川さんと素晴らしい選手が集まりました。
10年後の98年、長野五輪ではフィギュアの代表7人中4人(上記3名+アイリンコーチの荒井万里絵先生)が長久保チームだったそうです。
みんな東北高校に通いながら、泉で練習していた、と。
ちなみに、鈴木あっこちゃんは小6のとき(96年?)から長久保先生の夏合宿に参加しているそうです。
その頃、本郷理華ちゃんが仙台で誕生~。
理華ちゃんのお母さんは東北福祉大スケート部のOGで、
美容師のおばあさんは、2003年から東北福祉大生になったあっこちゃんの辛い時期を支えた「仙台の母」だそう。
仙台自体決して大きくはない町で、
そこのスケート界といったら本当に小さな世界なのかもしれない。
2002年からは稔先生や長久保先生の師匠、都築先生が新松戸から移ってくださったそう。
武史くんもソルトレイク4位入賞しました~
それなのに2004年末には経営難でリンクが閉鎖
(というか翌年ダイエー泉店自体が閉店に)
その結果、泉からバスで30分くらいかかる冬期限定リンク、ウェルサンピア(今はベルサンピアみやぎ泉)や町中の勝山へと、生徒たちはちらばっていったそうです。
2006年からは長久保先生が川越経由で名古屋の邦和に移って、都築先生もいなくなって、
結局,完全離散状態に。。。
この年に荒川さんがトリノで取ってくれたオリンピック金メダルがどれだけ大きな意味をもったか。
彼女は仙台の練習環境について記者会見で話して、問題を全国に知らしめてくれました。
彼女や県連の働きかけや、宮城県と仙台市の協力もあり、
加藤商会が2007年にリンクの営業を再開。
そんな仙台から、他県に移ることなく育っていったのが羽生君。
それがまた11年には震災の被害を受けて、半年近く営業停止て。。。(泣)
再開した今、東北で一年中24時間使えるリンクはここしかないんだそうですよ。
本当に荒川さんや羽生君のお陰です。
(8月の七夕杯は荒川基金のお陰だそうで。。。)
仙台のリンクといえば、泉より古いのが町中にありました。
1978年から2009年まで青葉区上杉で営業した勝山スケーティングクラブ。
ボーリング場と一緒になっていて、仙台の人達は「子供の頃行ったよ」と懐かしむ遊興施設でした。
荒川さんにとってもここの「ちびっ子スケート教室」がスケート人生の第一歩になったそうです。
今、仙台市青葉区上杉といえば落ち着いた雰囲気で、特に2丁目のあたりは仙台伊達家軍用御用酒屋だった勝山関係と縁が深い地域。
結婚式場勝山館に入っているPadrino del SHOZANなんかがあって、なかなか雰囲気がいいです。(仙台放送の本社も近い)
ちなみに、永井優香ちゃんを教えている東伏見の関徳武(めぐむ)先生もかつては勝山FC所属。
羽生君のコーチやコレオもやってらっしゃいました。
勝山のリンクは30年続き、泉のアイリンももうすぐ30周年。
そのくらいかけて、今のスケート界を支えるような選手やコーチ、振付師が仙台から生まれ育っていったのですね。
現在、泉を拠点にノービスで活躍する佐藤駿君は、
小学5年生ですでに5種類のジャンプをマスター。
地上波で「羽生君の再来」と特集を組まれるほど期待されています。
幼稚園のときから羽生君に憧れ、3.11に被災してからは、
川越に転校してスケートを続け、5ヶ月後にまた仙台に戻って努力を続けてきたそうです。
全日本ノービス連覇は羽生君も達成できなかったそうですが、
本人はパンダのテッシュカバーがトレードマークの明るくあどけない少年。
怪我をせず、長く楽しく滑り続けられるよう応援しています。
彼らの活躍はずっと震災後の東北を元気づけてくれています。
是非ここからまた市や県が主体的に、かつての長久保先生のような人材を集めてスケート王国を復興させてほしい。
スケート発祥の地、仙台の付加価値を高めて、国際的な認知度アップにもつながると思うのですが。
1890年頃に仙台在住の外国人がここでスケートを始めたとかで、
仙台におけるスケートの歴史は1世紀以上あります。
五色沼などでスケートをする外国人らに興味を持った仙台二高の生徒、河久保子朗・田代三郎・佐藤幸三らは、ドイツ語教師ウィルヘルから直接スケートを習いました。
また河久保は、東京大学進学後、
自らドイツ語で書かれたスケート解説書を取り寄せて翻訳したそうです。
1905年に中央線が諏訪まで開通すると、
多くの仲間とともに諏訪湖まで行って手探り状態でスケートの練習を始めたそうです。
『君なら飛べる!』で読みましたが、
佐藤信夫先生の世代の方は、この河久保先生から当時のお話をうかがったようです。
そこから随分時代は下りますが、
70年代には佐藤信夫先生たち品川プリンスのコーチたちの努力で佐野稔さんや松村充さんが飛躍し、
80年代には名古屋の伊藤みどりさんが大活躍されます。
こうしてスケート人気が再び盛り上がってきた昭和最後の63年(1988年)、
仙台泉にできたダイエーの「オレンジワン泉」に、千葉松戸から副支配人兼コーチとしてやってきたのが長久保裕先生でした。
先生の求心力(指導力)のお陰で、泉には福島の本田武史さん、青森の田村岳斗さん、仙台の荒川さんと素晴らしい選手が集まりました。
10年後の98年、長野五輪ではフィギュアの代表7人中4人(上記3名+アイリンコーチの荒井万里絵先生)が長久保チームだったそうです。
みんな東北高校に通いながら、泉で練習していた、と。
ちなみに、鈴木あっこちゃんは小6のとき(96年?)から長久保先生の夏合宿に参加しているそうです。
その頃、本郷理華ちゃんが仙台で誕生~。
理華ちゃんのお母さんは東北福祉大スケート部のOGで、
美容師のおばあさんは、2003年から東北福祉大生になったあっこちゃんの辛い時期を支えた「仙台の母」だそう。
仙台自体決して大きくはない町で、
そこのスケート界といったら本当に小さな世界なのかもしれない。
2002年からは稔先生や長久保先生の師匠、都築先生が新松戸から移ってくださったそう。
武史くんもソルトレイク4位入賞しました~

それなのに2004年末には経営難でリンクが閉鎖

(というか翌年ダイエー泉店自体が閉店に)
その結果、泉からバスで30分くらいかかる冬期限定リンク、ウェルサンピア(今はベルサンピアみやぎ泉)や町中の勝山へと、生徒たちはちらばっていったそうです。
2006年からは長久保先生が川越経由で名古屋の邦和に移って、都築先生もいなくなって、
結局,完全離散状態に。。。
この年に荒川さんがトリノで取ってくれたオリンピック金メダルがどれだけ大きな意味をもったか。
彼女は仙台の練習環境について記者会見で話して、問題を全国に知らしめてくれました。
彼女や県連の働きかけや、宮城県と仙台市の協力もあり、
加藤商会が2007年にリンクの営業を再開。
そんな仙台から、他県に移ることなく育っていったのが羽生君。
それがまた11年には震災の被害を受けて、半年近く営業停止て。。。(泣)
再開した今、東北で一年中24時間使えるリンクはここしかないんだそうですよ。
本当に荒川さんや羽生君のお陰です。
(8月の七夕杯は荒川基金のお陰だそうで。。。)
仙台のリンクといえば、泉より古いのが町中にありました。
1978年から2009年まで青葉区上杉で営業した勝山スケーティングクラブ。
ボーリング場と一緒になっていて、仙台の人達は「子供の頃行ったよ」と懐かしむ遊興施設でした。
荒川さんにとってもここの「ちびっ子スケート教室」がスケート人生の第一歩になったそうです。
今、仙台市青葉区上杉といえば落ち着いた雰囲気で、特に2丁目のあたりは仙台伊達家軍用御用酒屋だった勝山関係と縁が深い地域。
結婚式場勝山館に入っているPadrino del SHOZANなんかがあって、なかなか雰囲気がいいです。(仙台放送の本社も近い)
ちなみに、永井優香ちゃんを教えている東伏見の関徳武(めぐむ)先生もかつては勝山FC所属。
羽生君のコーチやコレオもやってらっしゃいました。
勝山のリンクは30年続き、泉のアイリンももうすぐ30周年。
そのくらいかけて、今のスケート界を支えるような選手やコーチ、振付師が仙台から生まれ育っていったのですね。
現在、泉を拠点にノービスで活躍する佐藤駿君は、
小学5年生ですでに5種類のジャンプをマスター。
地上波で「羽生君の再来」と特集を組まれるほど期待されています。
幼稚園のときから羽生君に憧れ、3.11に被災してからは、
川越に転校してスケートを続け、5ヶ月後にまた仙台に戻って努力を続けてきたそうです。
全日本ノービス連覇は羽生君も達成できなかったそうですが、
本人はパンダのテッシュカバーがトレードマークの明るくあどけない少年。
怪我をせず、長く楽しく滑り続けられるよう応援しています。
彼らの活躍はずっと震災後の東北を元気づけてくれています。
是非ここからまた市や県が主体的に、かつての長久保先生のような人材を集めてスケート王国を復興させてほしい。
スケート発祥の地、仙台の付加価値を高めて、国際的な認知度アップにもつながると思うのですが。