津吹純平の八ヶ岳高原『晩鐘抄録』

津吹純平の八ヶ岳高原『晩鐘抄録』

 人類が未経験の大惨事、福島第一原発事故と、徴兵制や情報統制を含む改憲の動きと、状況は深刻です。人間の尊厳、個の尊厳、動物や自然など、生きとし生けるもの全ての尊厳を守るヒューマニズムの立場から、思索し執筆しております。

 

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平和と民主主義問題考50 2012.12.17

 今回の衆院選において、自民と日本維新の会からなる改憲勢力は、国会の議席数で、必要な3分の2を確保した。

 が、改憲を可能にするためには、参議院においても、国会議員の3分の2の議席が必要となる。しかも、参議院選挙は、定数の半数だけが改選となるため、改憲勢力にとってはまだハードルが高い。
 昨夜の衆院選の衝撃的な結果をみて動揺したが、冷静に考えれば、今回の衆院選の結果を以て、「護憲」のチャンスが、あとは、「国民投票」のみになった、というわけではない事になる。

 ただ、今回の衆院選において、改憲勢力が、3分の2の議席を獲得するという実績をあげたことは軽視できない。
 非改選勢力を包含して、最終的に3分の2の議席を得るためには、来年の参院選において、改憲勢力は何議席必要になるのか、調べてみよう。

 3分の2より多く獲得しなければならないのか、それとも、3分の2よりも少なくて済むのかが、「護憲」の闘い、「改憲」との闘いにおいて、当面の焦点となる。




平和と民主主義問題考50の追記 2017.12.17

 参議院の定数は242議席だ。その3分の2は、162議席。
 一方、「改憲勢力」の自民党は現在83議席。という事は、まだあと79議席の増が必要となる。今回の衆院選で、自民党は3分の2には届かなかった。

 ただ、そこに、同じく「改憲勢力」の日本維新の会が、来年の参院選に相当数の候補者を擁立するだろうから、その自民+維新で、79議席を獲得できるかどうかが焦点だ。

 尤も、参院選挙は、定数の半数だけの改選になるので、来年の夏に行われる参院選においては、121議席を争うことになる。

 その時、非改選の自民党議員はどれだけあるのか? つまり、改選組において、非改選組との合計で3分の2を担保するためには、来年の参院選で自民+維新で、何議席の必要が生じるのか?

 さらに、調べ分析してみたい。

 が、自民と維新が、今回大飛躍した事を以て、今後の国会において、また日頃の政治活動において、どのような行動を取るのか?
 その如何によっては、今回得た旋風を再来し得るのか否か、という問題もある。

 そうした複雑な要素が絡んで、「改憲」の<画策>が成り立つのか、それとも、「護憲」が平和憲法を守り抜けるのか、という勝負となる。
 が、とにかく「護憲平和」の闘いが、いよいよ<政治課題>となってきたのは、間違いあるまい。

平和と民主主義問題考49 1012.12.16

 総選挙の日。そして都知事選の日。
 総選挙、政党の乱立もあって、投票先が決められない人が多いのだとか。

 だが、私は、これも、ある種マスコミの誘導によるものだと思っている。
 投票先を決める思考として、以下の展開はどうだろう?
 
1.まず、「脱(卒)原発」か、「原発推進・容認」かで分別。
2.次に、「改憲=国防軍・徴兵・集団的自衛権の行使・基本的人権の規制・主権在民の見直し」の是非で分別。
3.さらに、「TPP=関税撤廃および国民健康保険制度の廃止(高額医療の自由化)」の是非で分別。
4.そして、「消費増税=所得格差の拡大」の是非で分別。

 以上、この4つで、ほぼ2,3の政党・候補者に集約されるはずだ。

 その上で、あとは、国会の議席上、国会論戦を有意義にすすめるには、勢力図として、どのような在り方が求められるか(死に票を防ぐ)、という観点で、特定できるはずである。

 私は、このような思考展開で、意中の政党と候補者を、迷わず決めた。
 ただ、確かに、小選挙区においては、意中の政党からの候補者擁立がなかったので、そこは残念ではあったが、そして、投票した候補者の政党にも、<国民大連合の構築>という観点から、それに真逆な動きをした事に対しては批判するところ大ではあったが、前記の思考展開を為す事で、迷いが生じることは無かったのである。

 マスコミ人の「今度の選挙ばかりは、争点はいっぱいあるし、政党は乱立するしで、本当に選ぶのがむずかしい」との発言により、<政党を特定することが、実は明快にでき得る>という現実が隠蔽される<工作>に乗せられてはいけないと思う。
 ぜひ、確信をもって、あなたの貴重な一票を行使していただきたい。
平和と民主主義問題考48 2012.12.14

 北朝鮮の「ミサイル?」 ロケット?」発射が衝撃を与えている
 既に、「改憲」を唱え、<徴兵制>や<国防軍>や<集団的自衛権>を主張している勢力は、「北朝鮮の脅威に対抗するには、軍事力の強化しかない」と、鬼の首を取ったかのようなアジテーションを行っている。

 だが、ちょっと待ってほしい。
 今回のミサイルにせよ、ロケットにせよ、要するに、その軍事的に意味するところは、北朝鮮が「アメリカ本土」を攻撃できるようになったという点にある。(既に、日本攻撃を可能とする中距離弾道弾ミサイルは常時配備されている。)

 その事は、日本にとって、何を意味するか?
 私の考えでは、「最早、日本は北朝鮮と<戦争できない>」という事実である。

 つまり、日本が、「目には目を、歯には歯を」といきりたったところで、日本と北朝鮮が軍事衝突した場合、アメリカ軍の応援は期待できない、という事である。
 ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争としょっちゅう戦争を繰り返してきているアメリカだが、一度たりと、アメリカ本土への攻撃を体験してはいない。
 それが、今回の北朝鮮の「ミサイル? ロケット?」発射成功によって、想定しなければならなくなったのである。9.11であれほどパニックになるアメリカ国民が、核ミサイル攻撃が現実味を帯びてきた今、日本を守る為に、その危険を冒すだろうか?
 しかも、日米安保においては、日本自身がこのところ騒いでいる「集団的自衛権」の行使とは異なり、アメリカは、それを担保してはいない。あくまで、<アメリカの国益>に鑑み、<米国議会の承認>が得られた場合に限って、同盟国を軍事支援するのである。
 ならば、アメリカ本土への核ミサイル攻撃の危険を冒してまでも日本を守る保証はないと考えねばならぬ。

 それが<現実>だとすれば、日本は、単独で、「核保有国」の北朝鮮と正面から対峙せねばならなくなる。
 であればこそ、日本も<核武装>すべきという主張が出てきそうだが、私は、北朝鮮が日本の<核武装>化を黙認しはしないだろうと考えるのである。その前に、核ミサイルの先制攻撃も覚悟しなければならぬと思うのである。

 アメリカ本土への攻撃がまだ不可能だった時点ならともかく、それが可能となってしまった今、アメリカの軍事力の<抑止効果>に、日本が期待を寄せるのは、<現実>的な話ではなくなってしまったのではないか。

 その時、北朝鮮の核ミサイル攻撃の標的が、原発にあったとしたら?
 現に、北朝鮮軍の最高幹部の一人が最近、「日本を攻撃する時は原発を狙う。日本には人が住めなくなるだろう」と講演しているのである。
 
 事態がこのように推移してきた現状においては、最早、北朝鮮との<戦争>は、事実上、不可能である。
 わが祖国の「国民の命」と「国土」を、本当に守りたいのならば、今や、<戦争>なぞという愚かで悲惨な事象によるのではなく、徹頭徹尾、「平和」を守るために万策を尽くす以外にないのだと、私は考えるのである。

 今回の「ミサイル? ロケット?」発射成功が日本にもたらす意味とは、正に、日本はあくまで「平和主義」に徹するべきだという事である。
 決して、北朝鮮に対抗して、<核武装>化への道を歩むべきではあるまい。それは、<自滅>への道である。
 
 今回の北朝鮮の「ミサイル? ロケット?」によって、浮き足だっている人達に考えてほしい。
 今、日本は選挙期間中だが、そこでは、この常軌を逸した北朝鮮の暴挙に対抗して、<核武装>の必要を説く勇ましい雄叫びが聞こえるが、くれぐれも、私が今述べてきた事をしっかり胸に受け止め、冷静になって考えてほしいのである。

 日本が、北朝鮮と<戦争>するわけにはいかなくなった<事実>を直視してほしい。
 「もう日本は、北朝鮮と<戦争>はできないのだ」という<事実>を認めてほしい。
 その<事実>こそ、今回の事態に対する唯一の「現実」的認識でなければならぬ。

 けだし、今こそ、日本は、「平和国家」の道を歩まなければならぬ。
 「戦争」より「平和を!」である。

平和と民主主義問題考47 2012.12.11

 1987年春、私は、刊行した拙誌「コスモス」に、これから日本は、「戦争する国」になっていく。少なくとも、「戦争できるような国家体制」づくりに動き出したと書いた。

 それは、当時の、中曽根首相の「戦後政治の総決算」をみての事だった。
 いや、そもそも、私は、この国の保守層を核として、かなり広範囲に、戦後体制に不満をもつ人達がいるとみていた。その数はまだ表面的には多数派を形成していないかもしれぬが、政治家のみならず、官僚や財界や文壇をはじめとした有識者やマスコミなど、この国の支配層の間に、地下でマグマがうごめいているように、隠然と、連綿として戦前回帰の思想が通底していると考えていた。それぞれの分野において、また国民の間においても、あの天皇制軍国主義と戦争とファシズムを生んだ病巣がまだ、したたかに生き延びていて、日本人全体として、その思想、そ
の精神、その原理、そのシステムを、まだ完全には超克していないと認識していた。その事に87年よりさらに20年も遡る60年代--私がまだ二十代の時--に気づき、驚愕と不安に苛まれたものだった。

 が、著名な有識者やジャーナリストだけではなく、左翼系の活動家達でさえも、私の警告を、一笑に付したものだった。「国民は誰ももう戦争など望んでいない。マスコミだって騒ぐだろう。杞憂に過ぎない」と。「お前の憂いは、革新勢力の実績と人民の賢明な力を信じない敗北主義だ」と。

 中曽根首相の「戦後政治の総決算」の登場が意味することを、まだ、当時の人々は的確には理解できなかったようだ。
 だが、その後、この国のインテリ層を中心に一定の力を有し誇示していたマルクス主義に依拠する左翼勢力が労働組合をはじめ、各分野において徐々に退潮していく中で、多くの良識ある立場に立つ人々が平和の「砦」」として期待し頼りにしていたマスコミ・ジャーナリズムにおいても、隠然たる勢力が顕在化していったのだった
 私には、そうした表舞台での実態以上に、この国の深層部分に通底するマグマの存在ゆえ、最早、「平和の砦」は、ほぼ崩壊し、自力では、この国の「戦後護憲体制」は守れないであろうと判断せざるを得なくなった。
 この国が「戦争とファシズム」の襲来から「平和と民主主義」を守るには、かつての「大日本帝国主義」時代とは決定的に異なるアジア諸国の力と、もう一つ、「戦争とファシズム」勢力が、自ら失策する事の「他力本願」に期待せざるを得ないのではないかと、私は考えていた。
 
 そうして、こんにちに至っている。
 現実はどうか? 
 私の期待の半分、すなわち、「戦争とファシズム」勢力は、失策を犯してくれている。私がもし偏狭で狂信的なナショナリストでありファシストであったら、決して、今の時点では言わないことを、彼らは状況に昂揚した気分の中で、露呈してくれている。

 だが、これも、私が、「戦後護憲体制」を守り、「戦争とファシズム」勢力を打破するのは、なかなか困難に思えた理由だが、時代状況として、彼らの主張に一理あるを認め、彼らに権力を委ねてしまう恐れのある、換言すれば、「腐敗堕落した現状」を「とにかく何とかしてくれ」という意識が国民の間に生まれ、「擬制改革」と言うより実は「欺瞞的改革」なのだが、とにかく「改革」を叫ぶ勢力の出現が待望されるという事情の中でなかなか「護憲平和勢力」にとっては厳しい状況に立ち至っている。

 実際、政治状況、時代状況は複雑で、たとえば、腐敗堕落した「官僚」をはじめとした、今や学術界やマスコミなどにも蔓延する「既得権益」勢力をとにかく打破してほしいという国民の不満と怒りに、機敏に呼応している「反動的勢力」もあり--これも、私の予想していた事である--、なかなか「真の改革」を追求する政治家や有識者や国民の声がそのまま反映するには至っていないという実態がある。

 こうして、こんにち、ことごとくマニフェストに掲げた国民との約束を反故にし、真逆な事をやって退陣を余儀なくされた民主党政権への失望の中で国会が解散となり、「総選挙」という事態に直面しているわけである。

 そして、各マスコミの事前の世論調査では、今や公然と改憲を叫び、「国防軍」だの、「徴兵制」だの、「集団的自衛権」だのと、「戦争する国」への道を転げ落ちつつある政党が大勝利をおさめるとの予測がなされている。
 
 二十代から、そして1987年以来、細々と執筆活動を続けてきた私としては、真に,暗澹たる思いが募るのだが、しかし、過去の各界の有力者や著名人や左翼勢力らが評価した国民の力とは、意味合いがだいぶ異なるものの、現状を憂える人々も決して少なくは無い。まだまだ絶望するには早すぎる。桑名市の市長選挙をみよ、島原市の市長選挙をみよ。
 今や、「大政翼賛会」にも似た政治構造の中で、圧倒的な基礎票をもつ現職が、マスコミの世論調査では過小に評価されている新興勢力の新人に敗れているではないか。

 これは、闇夜の中に見る一条の光である。
 まだ、この国の民衆は、滅びてはいない。死んではいない。

 この歴史の転換点に立つ今、<平和か戦争か>、<民主主義かファシズムか>という分岐点に立つ今、かつての戦争前夜と同じく、体制に迎合し、<欺瞞的改革>を煽動しているマスコミの恣意的な予測を覆す「奇跡」を、私は最後まで信じたい。

 最後に、一つ付言しておけば、今回の最大の争点であるべき「脱原発」も、「戦争とファシズム」勢力が国家権力を掌握してしまえば、核武装への踏み出しの前に脆くも潰されてしまうだろう。
 けだし、「脱原発」を望む国民は、それゆえにこそ、「危険な改革」の声に騙されず、「護憲平和勢力」こそ、「脱原発」を成就する真の存在であることを理解してほしいと心から願うものである。

 「原発推進」より「脱原発」を、「ファシズム」より「自由と民主主義」を、そして「戦争」より「平和」を、ひとりでも多くの国民が希求されることを!!

哲学的思想問題考57 2012.12.08

 自民党の「改憲論」に、恐ろしい事実が判明。
 人権について、近代ヒューマニズムから大きく後退した思想が復活。

 確かに、戦後日本においては、「権利」の主張ばかりで、「義務・責任」を軽視する傾向があったとは思う。特に、その弊害は、教育の中にあると、私は考えている。
 が、しかし、この場合の「義務・責任」とは、<国家>に対して負うものではなく、<社会=共同体>や、<他者>に対して負うものではないか。

 我が国の歴史、文化、伝統を踏まえた「人権」規定と言うが、その<歴史>にしても、<文化>にしても、<伝統>にしても、それは確かに<有る>ものだが、しかし、その具体的内容は、しばしば、時の<権力>によって、<恣意的に規定>されるものだ。

 現平和憲法以前には、いわゆる「国体」なるイデオロギーが、<絶対的真理>として、国民ひとりびとりに強制された。それに背くと、時の権力によって弾圧された。

 その「国体」とは、実は、<日本人の総意>になるものではなく、<特定>の<共同主観的イデオロギー>に過ぎない。換言すれば、それは<特定の日本人の原理主義的価値観>を、恣意的・強制的に、<擬制普遍化>したものに過ぎない。
 簡単に言えば、時の<権力層>の<エゴ>を、一般国民に押しつけたものに過ぎないのである。私たち国民ひとりびとりが、同じ日本人の特定の人物群の<エゴ>に、<支配>されてしまうのである。

 この欺瞞的「人権」思想は、極めて危険なものだ。
 日本を、再び、反近代国家の色に染めることになってしまうものである。「ファシズム」への扉を開くものである。
 私は、決して、この危険な、反ヒューマニズムのイデオロギーを認めるわけにはいかない。
 多くの国民に、今や極右化した自民党の「改憲論」における「人権思想」の欺瞞・詭弁に騙されないようにと訴えたいと思う。