「うちは躾を厳しくしている」

 

 

それは親・大人の自己満なんだろう。

子供のとって親が全て。

世界は親が自分を愛していることを中心に回っている。

 

信頼。

 

箸の持ち方や食事のマナーも大切だけど。

アレルギーもあるんだから

好き嫌いで食べないんだ、と決めつけるのは早計じゃないかと思う。

 

好きでも食べたら症状が出る。

だから食べれない。

 

子どもと大人の味覚の差もある。

今は無理でもいつかは食べれるようになる。

「食べるまで寝てはいけません。」

とか、やめようね。

 

うちの子はハンバーグが食べれませんでした。

最近、「なんでこんな美味しいものが食べれなかったのか?」

と言っていた。

 

カレー、スパゲティー、ハンバーグは

子供が大好きな3大フードと言っても過言ではない。

それでも、嫌いな子もいる。

わたしはカレーがきらいだけど、食べれなくはない。

 

幼少の時に、親が言うところの

「厳しい躾」

とやらのせいで

「食べることに興味を持てなく育った」

だから、胃に入れば良い、死ぬことはない。

そういう考え方でいる。

 

効率よく栄養を摂取できれば

不味かろうが、美味かろうが

「意味を持たない」

 

これは非常に危機的な事柄だと親は全然

思いも至らなかった。

 

こういう子供は

大人になってから影響を受ける。

厳しい躾とやらのせいで、

子供が他人と食事をしないことの害を考えたことは

あるのか?

 

箸の使い方やその他のマナーが身についたこと

は感謝する。

 

しかし、楽しく会話しながら食事するという意味が

全く理解できない。

他人のアラ探しをしてしまう自分が嫌になる。

 

というより、

衛生的に汚くて、一緒に食事なんてできない。

同席しているのが恥ずかしい。

その他もろもろ理由はあるんだけど、

一番問題なのが、社会に出た時

食事で打ち解け、人間関係を形成するってことを

理解できないので排除してしまうこと。

 

 

愚痴大会である飲み会に参加しないで済むのは

喜ばしいことではある。

 

でも、友人と

「食べに行こうぜ」

というノリについていけない。

どうしても距離をとってしまう。

幻滅してしまう。

 

箸の持ち方が悪かったら

木のモノサシでベシっと叩かれた。

食べ物を口に入れようとして

「箸の持ち方が悪い」と注意を受け、結局食べれない。

極端なはなし、時間ギリギリまで粘って、

徹夜してでも食べなければ

食べ物は胃の中に入らないで済む。

嫌いなものなら、それでも良い。

好きなものなら奪われることになる。

結果だけみると、子供が最も信頼する大人から

人間の3大欲求のうちの1つを奪われる。

それだけじゃない。

安全も睡眠も生きていくうえで必要とするものが

どんどん減っていく。

無意識下に

親が信用できない=人間が信用できない

と刷り込まれてしまう。

 

これでは、なんのための躾なのか。

 

よく躾の厳しさを自慢する親がいるけど、

わたしはどこまで信用して良いのかわからない。

 

結局のところ、子供が育って親に感謝できるか

できないか。

 

子供が親世代になって、子育てするときに

初めて「躾の厳しさ」を自慢出来るのではないだろうか。

 

 

自分が嫌なことを他人にするな、

それは巡り巡って、自分に返ってくる。

あわせ鏡みたいなものだ。

 

自分が嫌なことをした相手から

直接返ってこないが、

それ以外の人は観ている。

 

そして、観ているひとから返ってくるのだ。

そう、お釣りはいらんよ、チップだから受け取ってね、

と。

 

 

だからといって、甘やかせと言っているのではない。

必要最低限のマナーは身につけるように

してあげれば良い。