【操舵手だった者の手記】
『ほら、もう起きなさい』
『もう大丈夫』
開けた視界には鈍色(にびいろ)の空が広がっていた。砂粒のベッドに横たわってから、もうどれだけ経ったのだろう。
それぞれが独立した生き物だったかのように、自分の手足は動き方を忘れてしまっていた。
起き上がっては転ぶの繰り返し、歩くと言うには不恰好なほど覚束ない足どりで家へと戻った。
扉を開けると、十二体の人形が私を出迎えてくれた。この十二体は確かに生きていたのだが、どうやらもう生きてはいないようだ。
先ほど聞いた声は、この十二体の最後の言葉だったのかもしれない。
奥の部屋へと向かう。
奥の部屋では、この家の中にある唯一の小窓から正円の光が射し込んでいる。
見れば見るほど忌まわしい正円だ。
今や、自分達が苦慮している星ですら円くはないというのが通説だと言うのに。
正しく円い。
正円が正円であるほど、これが人工的に作られた光なのだと再確認をしなくてはならない。
そしてこの正円の中に入れば、私は再び生まれることになる。
私は光の中へと進んだ。
二度目の目覚め。
と言うより本来の目覚めと言った方が適切だろう。
今度は間違いなく自分の家のベッドで目を覚ました。
先ほどまで言うことをきかなかった手足も、此処では文字通り自分の手足であることをすぐに実感できた。
現実への帰還だ。
私の代わりとなっていた、十二体のうちの誰かが私の日常生活を送っており、都度、聞きたくもない日々の出来ごとを報告して来たものだから、今からこの世界に飛び込むこともそこまで難しくはあるまい。
もっとも、溶け込むつもりで目覚めたのではないので私には関係ないことなのだが。
かつての友人たちも長い時間気ままな十二体に振り回されて来たので、そう残っていないことを知っている。今度は私自身が会いに行かねば。
私は、惑星探索型気関車ケレン10号の操舵手だった。
操舵手と言っても、今や星間旅行を担うような子どもたちに憧れられるような立派なものではない。
私もケレン10号も言ってみれば型落ちした似た者同士、時代遅れなのだ。
生きた時代を間違えたのか。
いや、単純に辛抱が足りなかったのだ。
だから私は操舵手をやめて眠りについたのだ。
私が眠っている間、この星がどのように廻っていたのかは知っている。再び目覚めた私には、かつての操舵手であった経験とかつて夢見た開拓の精神がある。
生まれ故郷であるこの星を離れるために、私は再び目覚めたのだ。
出立の前に少しくらいは綺麗にしてやろうと、ケレン10号を磨いてやった。
もともと旅客車ではないのだ、以前から綺麗にしておくという習慣がない。
ボロボロと言うに相応しかった姿を、三日三晩かけて少しはましな状態にした。おかげで、あちこちに刻まれた無数の傷もどこか誇らしげに見える。
肝心の機関部分には全くの異常もなかったのが幸いだった。点検と補修に追われていたら、綺麗にしてやろうなどとは思わなかっただろう。
明日は仲間たちと会う。楽しみだ。
仲間たちと会った。
私の目覚めを教えると、皆喜んで集ってくれた。
皆、思ったより変わっていなかった。
再会を喜び、他愛ない話をし、よく笑い、よく飲んだ。
一人だけ会えなかった者がいた。
どうしても会いたかったのだが、今どこで何をしているのか知る者はいなかった。
これから行くのは、星間旅行ではなく星間航海になる。帰って来たくなるのか、そもそも帰って来られるのかがわからない。
そして、これはかつての私の夢なのだ。
あの時から時間も経っている。
此処で別れなければならない仲間もいた。
それぞれの道がある。
萬の世とはそういうものだ。
一緒に行ける仲間と私は再び楽園を目指す。
4月10日
出発前夜。これが期待から来る興奮なのか、不安から来る戦慄なのかはわからない。或いは両方が入り交じっているものなのかもしれない。
仲間のことと、私の留守を守ってくれていた十二体の人形を想う。人形たちの疎ましく感じていた世間話も今ではどこか愛おしい。
それもこれも私であったのだ。私が出会い、私が育み、私が生きていたのだ。
解離性同一症。
もう恐れてはいない。
私自身が出会った仲間たちのことも。
明日は早い。もう眠ろう。
4月11日
出立日。見送りに来てくれた者たちに最後になるかもしれない別れを告げ、私たちはこの星から人生行路へと旅立った。ケレン10号とともに私たちも行く。
わからないことだらけなのだ。
これから訪れる世界に立ち向かうのは、あらゆる経験と意志を燃やさねばならない。
この大いなる三千世界の飛び方は、これから学んでいこうと思う。
気づけば、故郷はもう見えなくなってしまった。
故郷には見つけられなかった地上の楽園を目指して旅立った私は、すべてが冒険であった。子ども心に似た興奮を禁じえない。
さあ行こう。
We got the sun.
7月4日
故郷を離れてから84日。およそひと月前から確認していた生体反応がある三つの惑星に、いよいよ目視できるほどの距離へと近づいた。
この三つの星は面白いもので、それぞれが独自の動きをしているようで惑星と呼べばよいのか、衛星と呼べばよいのか判断が難しい。
私はこの三つの星をそれぞれ『エデン』『モダン』『サタン』と名付けた。
これは単純な話だ。
『エデン』はかつて故郷が持っていたと聞く深緑を誇っており、『モダン』は私の知る故郷に似た蒼白に囲まれており、『サタン』はそう遠くない未来の故郷が迎えるであろう鈍色に包まれていたからだ。
旅立ったはずの故郷に例えてしまうあたりが、やはり人は人でしかない。
星の引力に囚われたように、私たちはこの三つの星へと近付いている。今となっては、故郷の暦など何の意味もないのだが。
明日、7月5日。私たちは着陸する。