藤原広嗣の乱
当事者1:藤原広嗣
当事者2:橘諸兄
当事者3:大野東人
時代:奈良時代
年代:740年(天平12年)9月3日~740年(天平12年)10月23日
要約:藤原不比等の孫である藤原広嗣が橘諸兄政権に異を唱え、大宰府で叛乱を起こす。
内容:
叛乱の背景
740年(天平12年)9月3日、太宰少弐藤原広嗣が管下の兵を動員して叛乱を起こした。要求は彼の上表によれば、橘諸兄政権の実力者である玄 と吉備真備の宮廷からの排除であり、いわば諸兄の退陣要求であった。
広嗣は、藤原不比等の孫で、式家藤原宇合の長子である。
父の死の翌月、従六位上より一気に三階あがって従五位下となり、翌天平10年(738)式部少輔のほかに大養徳(やまと)守の要職を兼ね、栄進した。しかし同年、突然太宰少弐へと佐降される。理由は彼はもと長じて詐奸をなし、其父式部卿(宇合)常に除きて棄んとしたが能わずして今に至った。
だが、京中にあって親族を謗り乱れるので遠くに遷して、その心を改めさせようとした。という。
乱勃発
二年後の天平12年(740)、広嗣は時政の得失を指し、天地の災異を陳べ、結論として前期の二名を君側より除かんとして上表したが、もとより容れられぬとみて、9月3日大拠って兵を挙げた。
朝廷は直ちに征夷征討で勇名を馳せた参議大野東人を大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任じ、五道の軍計一万七千人を動員、特に朝廷上番の隼人二十四人と勅使佐伯常人・阿倍虫麻呂を従軍させて九州に送り込んだ。他方で、伊勢の神や観世音経の功徳を縋って戦勝を請わせもした。
朝廷軍と広嗣軍の衝突は天平12年(740)9月22日から始まる。佐伯・阿倍が四千の部関門海峡に近い九州側の防衛拠点板櫃鎮(兵営)を急襲した。広嗣側も、登美・京都など三鎮の兵で抵抗したが支えきれず、捕虜と多数の兵器を残して敗走した。
広嗣は管下から動員した軍を三手に分け、自らは鞍手、弟藤原綱手は豊後、多胡古麻呂は田河より軍兵を集めながら進み、朝廷軍を迎え攻撃する策であった。
しかし二軍未着のまま、10月9日には朝廷軍と広嗣主力が板櫃川を挟んで対峙した。広嗣軍は勇猛をもってなる隼人を先鋒とし、筏を組んで渡河したが、佐伯・阿倍部隊は弩でよく防いだ。
ついで朝廷軍は従軍させていた隼人を出し、隼人言葉で広嗣軍の隼人に「抵抗すれば罪は妻子に及ぶ」と帰順を呼びかけさせた。
また佐伯常人と広嗣は前線で会話した。
広嗣は勅使に下馬して再拝し「朝命には反抗朝廷の乱人二人の身柄を請うているのだ」と言い、佐伯は「朝廷で府の主典位上を召還しているのに、軍兵を率いるとは何事か」と応じた。
結果、隼人の中に投降する者が出始め、戦いの経過は不明ながら、広嗣軍は総崩れとなったらしい。
10月23日、広嗣は耽羅島(斉州島)に着くはずが値嘉島に吹き戻され、朝廷軍の無位阿倍黒麻呂に捕らえられ、翌月11月1日斬られた。