今回の大阪出張では久しぶりのSI-V講習会があったのですが、アシスタントをした私自身、今どこに関する設定が重要なのか、そしてそのための言葉使いは、どこが明確でどこが曖昧なのか、を認識してきました。
その認識の影響で今頭の中が変化し続けていますが。同時に、ここ数年のいくつかの出会いの「意味が」わかってきたことがあります。
詩や絵本に関わる人、本の著者、出版関係の人との出会いが、じわじわと増えていました。
「自分も本を書く」予兆かな?と思えることとは別に、そうか!と思ったことがあるのです。
その出会った方達は、皆「言葉の使い方」に関して敏感で繊細です。
言葉使いに敏感で繊細ということは、感情の乗せ方、言霊や周波数(発声)等を含む「使い方」をしているんです。品格や哲学性、そして美意識も含まれます。言葉を扱っているというほうが正確かな。
作家や詩人等は皆それができるのでは?と思うかもしれませんが、言葉を操る人や、上っ面だけを使うもどきな人もいますよ。中身は薄っぺらいのに饒舌さに惑わされることって、結構あるのではないでしょうか。
そして、丁寧な言葉使いをしましょうとか、言い切りましょうとか、完了形にしましょうとか、乱暴で粗野な言葉使いはやめましょう等という指導やアドバイスは、言葉の使い方を変える時には、有効なことはあるけれど、
でも「型」としての使い方を覚えるだけじゃあ、身に着いたことにはならないんです。
どうしてそういう言葉を使うのか?という、構造の背景が理解できて必然性を実感する必要があるんですね。
そうなると、標準語や敬語が使えるようになることを「かっこつけてる」とか、と揶揄したり、、クラスやステータスで人を差別するな、ということがあるけれど、そういう単純なことじゃあないのだな~、と思えます。
標準語は共通語として制定されたことになっているけれど、それだけじゃなかったのかもしれないとさえ思えてきました。
「統一」の意図はあったかもしれないけれど、実際に制定に関わった人達は言葉の扱い方に繊細だったのではないかしら。
元号を決める時にそうだったように。
新元号は「目論まれていた案」もあったかもしれないんですよ。でも、言葉に繊細は人達がそうはさせなかった可能性があるそうです。納得するなあ。
こうしてSI-V講習会で私自身が再認識してきたことを基に考えながら、最近きっかけがあって買った詩集をパラパラとめくっていたら、「ああ、そうか」と、また次の認識に繋がりました。
私の父方のルーツは百人一首の歌人「紀友則(紀貫之の従兄弟)なのですが、そのルーツの意味も更に腑に落ちていきそうです。

例えば、詩人で自分で朗読もする方もいるけれど、それぞれ分業の方もいますよね。
でも、百人一首の歌人たちは、自分でも声に出して詠ったわけです。声等を総動員して、言葉を扱ったわけです。
その旨さは恋の行方や出世にまで響いたのですから、命がけです。彼らは全身全霊で言葉を扱ったはずです。
そういうDNAが私の中にもあるのなら・・・・、と連想は続いていきます。父が生前詩吟を始めて師範格になったのさえも・・・・と。
言葉を使うとはどういうことなのか、こりゃあ奥深いわ・・・。
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