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第61番札所

香園寺 本尊(大日如来)

天皇のご病気平癒を祈願して聖徳太子が堂塔を創建したところ、金衣白髪の老爵が出現して本尊の大日如来を安置し、それらのことにより天皇から教王院の勅号を賜わる。
天平年間には行基も留錫して修し、さらに大同年間、来錫した大師は、難産で苦しんでいる婦人を見、救おうと紫檀の香を焚いて護摩修法されたのが山号のもととなり、その縁により安産、子育て、お身代わり、女人成仏の四ちの誓願と秘法を遣わされている。
大師はさらに唐の国から持ち帰った金像(5.6cm)の大日如来を本尊の胎内に納め、唐木紫檀をもって本存意薫じ護摩修法されたのが寺号となる。
のち、天正の長宗我部の兵火にあって七堂伽藍ことごとく焼失。
以来、紆余曲折ののち対象2年に再建。
そのとき、先の四つの誓願に加え心身健康、家庭円満、事業発展、善願成就の祈願寺としての基礎を固めたと言う。


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第62番札所

宝寿寺 本尊(十一面観世音菩薩)

この寺はそのとき伊予一国一の宮のご法楽所として創建された。
その後、数度の洪水でしばしば塔堂に被害を受け、荒れ果てていたが、天養2年(1144年)に再建されたのでその年号にちなんで天養山と山号を改めた。
弘法大師は四国御開創の折、久しく当山に留錫され、聖武天皇の后、光明皇后にかたどり、十一面観世音を刻み、当寺の本尊としました。
その後、天正13年(1585年)秀吉の四国征伐の争乱によって荒廃し、寛永3年(1642年)四国遍路の行者、宥伝上人によって再興されました。
さらに明治の廃仏希釈令で廃寺となったが同10年独立。
大正10年、予讃線開通のため現在地へ移転した。


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第63番札所

吉祥寺 本尊(毘沙門天)

四国唯一という本尊の毘沙門天は七難即滅、七福即生の霊験あらたかとあって親しまれ尊崇されている。
また境内には隠れキリシタンの遺物であるマリア観音があり、ほかに八角堂、七福神などがある。
山門まえにある成就石は宝亀年間に掘り出されたもので、その頃は滝津の瀬の流れにあったという。


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第58番札所

仙遊寺 本尊(千手観音菩薩)

天智天皇の守護仏である本尊の千手観音菩薩を一刀三礼をしてお刻みになったことから、作礼山と号しました。
養老年間に阿坊仙人が参篭し40年間読経三昧に往し、七堂伽藍は整のったのですが、或日雲の如く消えてしまったという伝説により、仙遊寺と名づけられました



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第59番札所

国分寺 本尊(薬師瑠璃光如来)

天平13年(741)聖武天皇の勅願により行基が、各国に創建したときの伊予の国分寺である。
それから年代を経、智法大師、三代目の住職しているときに当寺を訪れた弘法大師は、暫く留錫して五大尊の絵像を書き残し、大師の弟子の真如大師も留錫して法華経一部を染筆するなどの歴史を持っている。
しかし、それ以後は受難が繰り返されている。
それは、天慶2年の藤原純友の乱にはじまり、さらには治承4年、源頼朝の挙兵に呼応した国主河野氏と平家との戦禍に巻き込まれて類焼、南北朝時代の貞治3年には細川頼之が攻め入るなど、その都度、堂宇を焼かれたが、当国の国司の助力を得て再建された。


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第60番札所

横峰寺 本尊(大日如来)

台風12号の影響でお寺まで上がることができず、途中でお経を読みました。


白雉2年(651)役行者が星が森で修行中、石鎚山山頂に蔵王権現が出現したのでその尊像を石楠木に刻んで開創した。、
その後の大同6年当山を訪れた弘法大師が錫を留められ、四十二歳厄除けの星供の法を修している。感得した大師は、当地こそ霊地なりと大日如来を刻んで本尊に奉り、四国霊場60番札所と定められた。
寺の本堂は両部神道時代に神も仏も有難いのは同じである。と説いた大師の教義のままに本堂内部に左大臣を奉ってあり、建築様式は権現造りとなっている。


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第55番札所

南光坊 本尊(大通智勝如来)


伊予の大守、越智玉澄が文武天皇の勅願を受け、今治沖に浮かぶ大三島に大山祇明神を勧請し、法楽所として二十四坊を建立した。
ところが、海が荒れた時など海を渡っての参詣に不便を感じ和銅5年(712)その別宮を越智郡日吉村に移したとき、二十四坊のうちの八坊を別当寺として共に移した。
天正年間、長宗我部の兵火に遭って堂宇は焼失、さらに城主河野家の滅亡とつづき、滅亡と同時に寺領を没収されたが、南光坊だけは別宮明神の別当寺として再建され、慶長5年には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂の再建を見、さらに久松藩主からも尊信を得、別当職を持続していたが明治の廃仏棄釈令で御本地仏として社殿に奉安してあった大通智勝如来、二大脇士、十六大王子を薬師堂に還し寺として独立。



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第56番札所

泰山寺 本尊(地蔵菩薩)

弘仁6年弘法大師がこの地を巡礼しているとき、梅雨のため蒼社川の水が氾濫していました。
大師は川原に壇を築き「土砂可持」の秘法を七座厳修されましたところ、満願の日にご本尊
延命地蔵菩薩が空中にし出現したといいます。
大師が示現せられた地蔵尊を刻まれて本尊とされました。
2尺4寸(180cm)座像の秘仏で、一寺を建立して本尊として安置しました。
延命地蔵経十大願の第一「女人泰山」から寺名をとられ「泰山寺」と名づけられました。


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第57番札所

栄福寺 本尊(阿弥陀如来)


傾斜地を旨く使い納経、大師堂、本堂と段々に配置された境内が印象的である。
入り口に立つお願い地蔵尊も印象的だが、注目は本堂脇に置かれた木製箱車と松葉杖。
これは昭和8年に足の不自由な少年が訪れた際、境内でうっかりころんだ拍子に歩けるように
なったという不思議な実話の奉納品です。


52代嵯峨天皇の勅願寺で、高祖弘法大師の御開創による。
大師が四国を御巡錫のおり、この地方に海難事故がしばしば起こるのをあわれに思召され、
当符頭山頂で海神供養の護摩供を修法され、府頭山頂に一寺を建立しました。
これが当山の始まりです。
その後、清和天皇の貞観3年(861年)大安寺行教和尚が、宇佐八幡の霊告をお受けになり、
山城の男山八幡創建に行く途中、暴風にあいこの地に漂着しました。
その時、当山の山姿が男山に似ていると感激して、境内に八幡宮を勧請し、社殿を造営し、
神仏合体の勝岡八幡宮を創建しました。



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