不登校を認められた子と
許されなかった子の違いについて考察してみようと思う。
昔むかし、私の時代はゆるされなった。
時代が許さなかったし、
親も許さなかったし、
許されないという共通認識。
社会のルール。
ズル休みすらすごい罪悪感だった。
選択肢にすら上がらなかった。
今の時代は
ネット社会が普及したこともあって、
不登校が増えてることや、無理に行かせなくてもいい、
見守りが基本となっていること。
こんな有名人も不登校だったとかも知れる。
それは選択が許されるようになった豊かさの進歩なのか?
それとも惰性の退化なのか?
まだ誰にも分からない。
ただ一つ、心の動きとして、
頑なに認められなかったとしたら
それは多感な時期の子どもの心にとって
大きな傷になる得るということ。
自分はありのままでは
愛されないんだ。
という思い。
親の、周りの、社会の、
これが普通、当たり前、という枠に当てはめられて
自分という存在は、
その枠を出たら無価値になるという思い。
これは不登校だけに限らずあると思う。
不登校させてもらったとしても、
じゃあ休んでる間に、
どんなことを積み上げれる?
という脅迫観念。
過去に不登校で、
今や大成功してる有名人。
そんな人たちの例をみて、
息子だって、何かしら成し遂げられるかもしれないと
期待をしなかったと言えば嘘になる。
そういった傷は本当の大人になっても
いつまでも胸の奥で疼く
その時認められるために
成し遂げたこと。
そして認められたこと。
それは素晴らしいし
美談だ。
逆境から掴んだ成功。
輝かしいことだ。
誰だって、多感な時期に受けた傷を
いつまでも引きずっていたり、
ふだんは見えないけど、
ふとした時にその傷が疼くことってあると思う。
もうその傷をつけた人は、
目の前にいなかったり、
当時の自分にタイムスリップしてやり直すこともできない。
だからこそ自分で癒していくしかない。
まずはその傷を見つけてあげて
慈しんであげる。抱きしめてあげる。
これの厄介なとこは、簡単には消えないとこ![]()
さらに上乗せされることもある。
これでもかというくらいに
傷が疼くたびに、
やってあげることで、
いつのまにか傷とも認識しなくなる。
寛解って感じ。
これは私が
パニック障害になった時に、
見つけたもので、
子ども時代、学生時代、
母になってから、
色んなかすり傷がついていったり、
時には致命傷になりかねない傷がついたりしていった(心の話ね)んやけど、
全てに共通した
奥底の傷が、
ありのままの私で愛されたい
ということ。
そこを刺激された時、何度も疼く。
不登校を認められなかった
もしくは条件付きだった場合の
この傷は
人生の中でもわりと大きい傷になると思う。
人生の初めの段階で一番信頼を置いていた
家族からのものだから。
だからすごく丁寧に、コミュニケーションを取らなきゃいけない問題ではある。
誰が悪いわけでもない。
それがまた、厄介。
それもまた人生ではあるんだけど。![]()