皆さんは「どうする家康」という大河ドラマを観ていましたでしょうか。
歴史好きな自分にとって、大河ドラマとかで城とか出てくると無性に行きたくなるものです。
今回はそんな「どうする家康」の舞台になった浜松城のお話しをしていきたいと思います。
あなたもこの説明を聞けば行きたくなる事間違いなし😎
出世の願掛けにもされている名城
浜松城に訪れた時、あれ意外とそんなに大きくないなと正直そう感じました。
しかし、この城が名城と言われるには訳があります。
それは、歴代城主の多くが後の幕府の本体の重鎮に雇用されていることから、この城は「出世城」と呼ばれ、今では出世の願掛けとして多くの人が来訪されているのです。
また、この浜松城の名付け親がなんとあの江戸幕府を作った徳川家康なのです。
徳川家康自身が浜松城の城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進め、この改修によって現在の浜松城に近い形になったと言われております。
戦国時代に重要な場所に位置した城
上の写真は浜松城に展示されていた、東海地区の戦国時代の大まかな地図になります。
浜松城はこの地図でいうと駿河の場所に位置し、駿河の重要な拠点として、様々な戦国武将がこの城を巡り戦が行われていたそうです。
このお城を巡る特筆すべきエピソードとして、三方ヶ原の戦いが挙げられます。
三方ヶ原の戦いでは徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰ったそうです。
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城の計(敢えて城を開放して敵の攻撃を誘う策)という戦法を取りました。
結果、浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げたといわれています。
このエピソードは徳川家康の後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われており、討ち死寸前まで追い詰められた徳川家康の敗北の一つに数えられております。
ついでに浜松城近くの浜松八幡宮で参拝してきました
浜松八幡宮は1100年の歴史があり、徳川家康をはじめ、代々将軍の開運の地として、古くから崇められてきた縁結びの神様「伊邪那岐命(イザナキノミコト)」「伊邪那美命(イザナミノミコト)」を祀られており、縁結びの神社としても愛されてきた、由緒正しき神社になります。
我ながらこの写真のアングル、角度ベストショットかなと思います😎
浜松城から徒歩5分位の所に位置しているので、浜松城を観光したついでに行ってみてはいかがでしょうか。