いろんなシーンで、その人なりの失言があったとき、反省の弁があれば
そこで終わりにすることができる。しかし、終わりにするための謝辞を拒むシーンもある。
人はなぜ反省したがらないのか?そこにはいろんな事情がありながらの心がある。
反省すれば、対策を打つことも可能となり、発展が見込めるというもの。
しかし、そうはさせじと拒む心が発展や成長を拒んでしまう。
親子や友人、職場の同僚など、様々な対人関係において、そうしたシーンがある。
謝りたくない心には、利害を中心とした計算がなされる場合がある。
その場合には、唯物的な世界観に終始するが、これとは別に、”プライド”といった
曖昧なものによる拘りに至る場合がある。この場合はとても厄介なもので、感覚的な
印象はあるものの、明確なセオリーもない状態で、悪戯に時間が過ぎていく。
とどのつまりは、なんとなく解決したような...といった印象を抱きつつ
終焉を迎えるようなケースが多い。
私たちは、なかなか謝れない。
謝れない心を持つ私たちは、いつしか、素直に謝ることのできるひとへと成長する。
そこがまた面白いのである。
羽龍 章