宇治川先陣 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○宇治平等院を訪れ、ブログ『源三位頼政公の墓』から『源三位頼政最期』、『鵼(ぬえ)』、『宇治川』と続けている。三位頼政が平等院で亡くなったのは、治承4年5月26日(西暦では1180年6月20日)のことだとされる。

○その後、宇治川では、再び合戦が行われる。それが『宇治川の戦い』になる。「平家物語」では、『宇治川先陣』として、夙に知られる。もちろん、「平家物語」のことだから、頓に戦いを始めるわけではない。『生ずきの沙汰』と言う前話を済ませてから、『宇治川先陣』は始まっている。

○もちろん、『宇治川先陣』は、名立たる次の名文で始まる。

   比は睦月廿日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの

  雪も消え、谷々の氷うち溶けて、水は折ふしまさりたり。白浪おびただしう

  みなぎりおち、瀬枕大きに瀧なって、さかまく水も速かりけり。夜はすでに

  ほのぼのとあけゆけど、川霧深くたち込めて、馬の毛も鎧の毛も定かならず。

○「比は睦月廿日あまりのことなれば」とあるけれども、この日は寿永3年1月20日(西暦1184年3月4日)と確認されている。『源三位頼政最期』からちょうど4年後のことである。源三位頼政は、宇治川の左岸、平等院で自害し果てたが、『宇治川先陣』では、平等院の方から宇治川の右岸へと源氏は渡ることになっている。誰もそういう説明をしないから、こういうふうに解説するしかない。

○いよいよ、『宇治川先陣』から『宇治川の合戦』へと展開するわけだが、『宇治川の合戦』そのものが「平家物語」の創作であり、脚色に満ち満ちていることを見逃してはなるまい。ここで相対峙するのは、九郎御曹司義経軍と木曽義仲の軍勢になる。

○九郎御曹司義経の軍勢について、「平家物語」は次のように丁寧に案内する。

   搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同じく伴ふ人々、安田三郎、大内太郎、

  畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、澁谷右馬允、平山武者所

  を始めとして、都合其勢二万五千餘騎、伊賀国を経て宇治橋の詰にぞ押し寄

  せたる。

○九郎御曹司義経の軍が二万五千餘騎なのに対し、義仲軍はわずかに300余騎。最初から勝敗は決着がついている。『宇治川の合戦』など、何も無かったことがはっきりしている。だから、「平家物語」は、華々しく『宇治川先陣』を喧伝するのである。

○そういう舞台設定しか、『宇治川の合戦』では無かったのである。したがって、舞台は、次のように設定されていることが判る。

   丹の党を旨として、五百餘騎ひしひしと轡を並ぶるとこ平等院の丑寅、

  橘の小島が崎より武者二騎ひっ駈けひっ駈け出で来たり。一騎は梶原源太

  景季、一騎は、佐々木四郎高綱なり。

○いよいよ主役の登場である。その両者が『宇治川先陣』を競い争う。それが『宇治川の合戦』の内実である。それこそ、

  さてこそ、宇治川の合戦はなかりけれ。

と言う話である。しかし、それでは物語が始まらない。仕方が無いから、佐々木四郎高綱が見栄を切って、場を盛り上げるしかない。

   佐々木鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を挙げて名乗りけるは、

     宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、

     宇治川の先陣ぞや。われとおもわん人々は、高綱に組めや。

  とて、おめいて駆く。畠山五百餘騎でやがて渡す。

○これが世に名高い『宇治川の合戦』であり、『宇治川先陣』である。二万五千餘騎と三百餘騎では、勝負にはならない。戦いようが無い。私たちは、みな、「平家物語」に踊らされ、騙されているに過ぎない。