○2022年2月3日、京都ぶらり旅で、下鴨神社へお参りした。下鴨神社の境内、神服殿の脇に、媛小松と言う松の木が植えてある。『媛小松(ひめこまつ)』と言う割には、結構大きく、もう神服殿とほぼ同じくらいの高さである。
○その媛小松の前に、次のような案内板が設置してあった。
媛小松(ひめこまつ) マツ科ヒメコマツ
ちはやぶる 鴨の社の ひめこ松
よろずよふとも 色はかわらじ
藤原 敏行(古今和歌集)
賀茂祭(葵祭)、御蔭祭のとき
奏される東游(あずまあそび)はわが国最古の
歌舞である。
この松は歌の二段目『求め子』で
鴨の社のひめ小松とうたわれた媛小松である。
なお『ひめこ松』のひめは
当神社の御祭神玉依媛命の御名にちなんで
『媛』と記されるようになった。
○その『東游(あずまあそび)』については、ウイキペディアフリー百科事典では、次のように載せる。
東游(あずまあそび)
東遊(あずまあそび)は、雅楽の国風歌舞に類される長大な組曲である。
演奏時間に30分程度を要する、かなり長い組曲であり、東国起源の風俗歌(大和地方の倭歌(やまとうた)に対応する)にあわせて舞う。舞人は6人あるいは4人、歌方は拍子、和琴、琴持、東遊笛(中管)、篳篥、付歌で奏する。ただし、現代においては宮内庁式部職楽部を除いて東遊笛の代わりに高麗笛が用いられることがほとんどである。もっぱら神事舞として奏し、明治時代以後は宮中では4月3日の神武天皇祭、春・秋の皇霊祭、その他春日、賀茂、大宮氷川など一部神社でもちいられている。起源伝承としては、安閑天皇の治世、駿河国(いまの静岡県)の宇土浜に天女が降って舞った舞を模したという伝承がのこる。
○ウイキペディアフリー百科事典の『東游(あずまあそび)』では、その歌詞をも、載せている。
阿波礼(あはれ) 「天晴(あはれ) お お お お」
一歌(いちうた) 「はれな 手を調へろな 歌 調へむな 相模(さがむ)の嶺」
二歌(にうた) 「え 我が背子が 今朝の言伝えは 天晴 七つ絃(を)の
八つ絃の琴を 調べたること や なほ懸山の桂の木や
お お お お」
駿河歌一段(するがうたのいちだん) 「や 宇渡浜(うとはま)に 駿河なる宇渡浜に
打ち寄する波は 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し」
駿河歌二段(するがうたのにだん) 「言こそ佳し 七種の妹は 言こそ佳し
逢える時 いささは寝なんや 七種の妹 言こそ佳し」
求子歌(もとめごのうた) 「千早振る 神の御前の 姫小松
あはれれん れれんやれれんや れれんやれん 可憐(あはれ)の姫小松」
大比礼歌(おおびれのうた) 「大比礼や 小比礼の山 はや寄りてこそ」
○つまり、もともと、『東游(あずまあそび)』に、
千早振る 神の御前の 姫小松
と言う表現が存在したことが判る。藤原敏行はその句をそのままそっくり上の句に使って、
ちはやぶる 鴨の社の ひめこ松 よろずよふとも 色はかわらじ
和歌を詠んだことになる。
○また、ウイキペディアフリー百科事典の『東游(あずまあそび)』の説明の中に、次のようにあることも、注目される。
催馬楽よりもふるく、もと東国でおこなわれたものであるが、外来楽の隆盛と
ともに都にはいった。 すでに絶滅傾向にあった貞観3年(861年)3月14日に
東大寺大仏供養のとき、唐楽、高麗楽、林邑楽とともに東遊がおこなわれた
ことは注目される(『続日本紀』「次近衛壮歯者廿人東舞」)。寛平元年(889年)
11月から賀茂祭で東遊がおこなわれ、東国の民間歌舞が都の祭祀の歌舞と
なったことになる。
○同じく、ウイキペディアフリー百科事典の藤原敏行項目に、
貞観8年(866年)少内記。大内記・蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛権佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。
宇多朝に入ると、仁和4年(888年)五位蔵人に任ぜられるが1年ほどで病気により辞任している。寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭も半年ほどで辞任した。またこの間、春宮大進/亮として春宮・敦仁親王にも仕えている。
寛平9年(897年)7月に敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴って、春宮亮を務めた功労として従四位上に叙せられ、同年9月に右兵衛督に任ぜられた。
とある。
○つまり、賀茂の祭りで、東遊がおこなわれたのは、寛平元年(889年)11月が最初とされる。藤原敏行の生年は不明だが、仮に最初に叙爵した貞観15年(873年)当時を20歳前後だとすれば、寛平元年(889年)11月は、40歳前後だと言うことになる。
○藤原敏行の、
ちはやぶる 鴨の社の 姫小松 よろづ世経とも 色は変らじ
和歌は、そういう和歌であることが判る。
○日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が奏上されたのは、延喜5年(905年)4月18日だとされる。その「古今和歌集」冒頭を飾る和歌が、藤原元方の、
年のうちに 春は来にけり 一年を 去年とや言はむ 今年とや言はむ(古今ー0001)
であることは、誰でも知っているが、「古今和歌集」の最後を飾る和歌が、藤原敏行の、
ちはやぶる 鴨の社の 姫小松 よろづ世経とも 色は変らじ(古今ー1100)
であることを理解している人は、少ない。それが下鴨神社の媛小松である。