開聞岳のホトトギス | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2020年9月26日に、開聞岳に登って来た。体調が思わしくなくて、標準登山時間3時間のところを4時間も掛けて、どうにか登った。下りも標準時間が2時間30分なのに、3時間20分も要した。何ともハードな登山であった。

○もともと開聞岳登山は厳しいものがある。通常の山なら、登山口まで車などで行って登る。高千穂峯なら、登山口のある高千穂河原が、すでに標高1000mもある。したがって、登るのは残りの574mだけと言うことになる。

○ところが開聞岳は海のすぐ近くに存在する。登山口の標高も100mくらいしかない。したがって、開聞岳登山は標高924mのほとんどを人力で登るわけである。だから、開聞岳登山は厳しい。

○それに高千穂峯なら眺望が凄い。それがずっと続く。それに対し、開聞岳登山は眺望できる場所は五合目と九合目、山頂だけである。あとはずっと林間を歩く。眺望など、まるで無い。傾斜はそれ程厳しくはないが、だらだらとずっと続く。それがまた厳しい山行となる。

○以前は1月2月に開聞岳に登っていた。ほとんど雪の無い山であるから、冬山登山の心配が無い。あとは秋に登ることが多かった。今回9月26日の登山だったが、この時期に開聞岳に登るのは初めてではないか。

○体調が悪くて、悪戦苦闘しながら登った。ゼエゼエ言いながらの苦しみながらの登山だった。もっとも、普段、ほとんど運動をしないから、その付けが反って来るのである。山登りは、私にとって、昔から、ほとんど荒行難行の繰り返しである。ある意味、慣れたものであった。

○山登りをする人は、習慣的に毎日運動している。食事を作ったり、道具を手入れしたりして、怠らない。私の場合、山登りが専門ではない。山登りと釣りの道具は混在している。釣りの道具は定期的に手入れするが、山登りの道具はほったらかしのままである。もともと、そういうぐーたらな性格なのである。

○だから、山で苦しむ。しかし、私の場合、山はそういうものだと自覚している。一日目は大いに苦しむが、二日目には、だいぶん和らぐ。三日もすると慣れて来る。そういうのが私の山行である。海も山も同じで、しばらくすると慣れる。慣れれば楽しい。慣れるまでが苦しいだけである。

○2020年9月26日に、開聞岳に登って、たいへんな歓迎を受けて嬉しかった。これだから、山登りは止められない。山は季節によって、大いに姿形を変えるのである。

○それが花ホトトギスの歓迎であった。七合目か八合目あたりから、登山道の脇に山ホトトギスが幾らでも咲いているのである。こんな歓迎は滅多に無い。おそらく、100とか200、300と言う数の花ホトトギスを目にした。

○屋久島に宮之浦岳と言う山がある。九州では最高峰の山である。これまで、何度も宮之浦岳に登っているが、宮之浦岳の美しさは、5月末にしか判らない。屋久島に花之江河と言うところがある。標高が1600mくらいの湿原である。

○ここが何故、花之江河と呼ばれるのか? それはここを5月末に訪れた者にしか理解されない。花之江河はシャクナゲの花の咲き誇る場所なのである。それは見た者にしか判らない。感動的な花畑なのである。

○「花の命は短くて」と言うのは林芙美子の名言だが、花ホトトギスの命は本当に短い。種類にもよるらしいが、短いものは僅か一日二日だと言う。長くても四五日だとされる。そういうものを数百も目にすることができた。そんな山が開聞岳だと言うことを初めて体験できた。こんな感動は無い。

○この辺りでは、ホトトギスと言えば、高隅山が知られる。しかし、開聞岳のホトトギスが凄かった。偶々、時期が良かったのだろう。幸運だったと言うしかない。意外なところで意外なことを学習することができた。貴重な体験だった。だから、山登りは止められない。