○2020年10月28日(水)の朝日新聞、第26面文化欄に、次のような記事が載った。
銅鏡の文様 卑弥呼は理解していた?
吉野ヶ里歴史公園 フォーラム
歴史書「魏志倭人伝」によると、使者を送った倭(日本)の女王・卑弥呼に、中国・魏の明帝は
「汝の好物を賜う」と、銅鏡100枚を贈ったという。倭人の鏡好きは中国にも伝わっていた。その
銅鏡の文様や文章(銘文)の意味を、倭人はどこまで理解していたのか。9月に佐賀県の吉野
ヶ里歴史公園で開かれたフォーラム「よみがえる邪馬台国」で議論になった。
同公園の特別企画展「邪馬台国と豊前『宇佐』」(11月8日まで)では、佐賀県のはか、瀬戸
内海への窓口として栄えた豊前(福岡県と大分県の一部)、瀬戸内海に面した播磨・攝津(兵
庫県南部)の弥生~古墳時代の出土品を展示中だ。大分県宇佐市の赤塚古墳で出土した三
角縁神獣鏡(レプリカ)など銅鏡も多く、その裏面には古代中国の宇宙観、不老不死の神々や
仙人の世界とともに、詩などの銘文が刻まれている。
高島忠平・佐賀女子短大名誉教授が進行役を務めたフォーラムでは、倭人が鏡の銘文を理
解したかどうかが話題になった。兵庫県立考古博物館・古代鏡展示館の種定淳介学芸員は、
当時の外交が漢文のやりとりで行われたと指摘し、「支配者層は漢詩の機微までは分からなく
ても、少なくとも文意は理解できた」と推測。大分県立歴史博物館の越智淳平主任研究員は、
北部九州で弥生時代のすずりが次々と見つかっていることから、「交易で文字は不可欠だった
のでは」と述べた。
一方、鏡の文様をめぐっては、高島さんは「卑弥呼の使者は、中国から宇宙観や神仙思想を
持ち帰ったはず」と推定。種定さんも「文様の意味をある程度理解していなければ、鏡をもらう
意味はなかったのでは」と話した。
卑弥呼が行ったという「鬼道」も、中国の道教だとする説がある。銅鏡に込められた思想を読
み解くことは、「卑弥呼の鏡」の解明につながるかもしれない。 (今井邦彦)
●いまどき、まだこういうフォーラムが開催されていることが驚きである。もっとも、こういう催し物をしないでは、吉野ヶ里歴史公園など、誰も訪れはしまい。吉野ヶ里歴史公園の売りは、何しろ、邪馬台国と卑弥呼しか無いのであるから。
●冒頭に、堂々、
歴史書「魏志倭人伝」によると、
と掲げる。寡聞にして、歴史書「魏志倭人伝」など、見たことも聞いたことも無い。「魏志倭人伝」と言うのは、字数僅か1986字の代物に過ぎない。少なくとも、「歴史書」ではあるまい。ちゃんと「三国志」と言う書名がある。それも中国の正史なのである。
●次に、
使者を送った倭(日本)の女王・卑弥呼に、中国・魏の明帝は「汝の好物を賜う」と、
銅鏡100枚を贈ったという。
とある。本当だろうか。確認のために、「三国志」を見ると、女王卑弥呼に贈られた詔書の全文は次のようになっている。
制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女
生口六人班布二匹二丈以到汝所在逾遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝為親魏倭王假
金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉為孝順汝來使難升米牛利涉遠道路勤勞今以難
升米為率善中郎將牛利為率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽
十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹
金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到錄受悉可以示汝國中
人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
●魏の明帝が卑弥呼に贈ったのは、決して、
「汝の好物を賜う」と、銅鏡100枚を贈ったという。
のではない。こういう表現を詐欺詐称と言わないで、何と言うのだろうか?
●魏の明帝が卑弥呼に贈ったのは、
絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、紺地句文錦三匹、
細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、
という膨大な贈り物なのである。
●判るように、銅鏡100枚はその一部に過ぎないし、別に卑弥呼の好物でも何でも無い。ことさら、銅鏡だけを取り上げるのは、考古学者先生だけなのである。文意を全く無視した読み方である。こういうのを曲学阿世と言う。
●今井邦彦はそれを、「卑弥呼の鏡」と持ち上げる。笑止千万だと言うしかない。まるで「三国志」を読んだことの無い方の考えである。
◎9月に佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれたフォーラム「よみがえる邪馬台国」で、そういうことが話題になったと言う。思わず笑ってしまった。自分たちだけが一番だと言う思い上がりがここにある。そしてそれが間違いのもとであることに、まるで気付いていない。何とも、不幸な話である。
◎宮崎県には郷土の偉人として、安井息軒先生がいらっしゃる。私たちが読んでいる冨山房「論語」は、安井息軒先生の手になるものである。どう転んでも、私達は安井息軒先生の漢文力には敵わない。考古学者先生は偉いから、相当な漢文力をお持ちなのだろう。卑弥呼の漢文力を何とも馬鹿にした話である。卑弥呼の漢文力はおそらく安井息軒先生を圧倒する。
◎後世の愚かな学者先生は、自分が一番偉いと思っている。とんでもない勘違いである。まずは、真面目に「三国志」を読むことだろう。生涯を懸けて。そうでないと、中国の史書は読めない。「魏志倭人伝」1986字を読むとは、そういうことである。